信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

GIGAスクール時代に

 GIGAスクール事業が始まって,現在は全国の各学校にタブレットが一人1台の時代となりました。入学時に,自分のタブレットがあって卒業までそれを持ち上がっていきます。自分の履歴が蓄積され,電子ポートフォリオとしての機能も果たしていて充実した学びが保証できるようです。これからの時代を生きる子どもたちに相応しい教育の一つであると言えます。
 一人1台のタブレットが導入されている学校教育において,『学び合い』はどのようにしたらよいのでしょうか,という質問をよく受けます。タブレットが導入されたからと言って,一人も見捨てない考え方が必要なくなるわけではないので,『学び合い』の考え方を大切にして,子どもたち全員で共有して取り組んでいくことが重要でありかつ大切であるという考え方には全く変わりありません。
 先日,Google Classroomを使った授業実践を参観する機会がありました。見事な授業でした。それは,当該システムを使いながら,子どもたちが自由に分からないことをタブレット上で出し合いながら学びを深めている様態を見て取れたことに依ります。そこではまさに一人も見捨てられていない環境構成が配慮されていることを感じることができました。
 一つの方法ではないかと感じます。面と向かって,分からないんだけど教えてくれない?と言えない子どもたちにとっては,魔法の箱ではないかと思ってしまいます。誰にでもどんなことでも分からないことをいつでも聞くことができるのですから,素晴らしいことです。さらに,だれからでもアプローチしてもらえる環境が整っているのですし,何もタブレット上だけでのかかわりでなくても,タブレット上からのメッセージがあったらすぐに駆け寄っていってフェイス・トウ・フェイスで語り合ってもOKなのです。
 タブレットを使おうが使うまいが,一人も見捨てないことさえ根幹に据えていさえすれば,GIGAスクール時代に素晴らしい教育が子どもたちの学びをサポートしてあげることができます。

 

見通し

 見通しを持つことは重要でかつ大切です。見通しを持つことによって,自らの行動を発動したり制御したりすることができるからです。新たなアイディアを生み出すスケジュールを組むことも可能です。個人内に閉じている場合に自分一人の問題ですから,自分のペースで,1日先,1週間先,1ヶ月先,半年・1年先,そして10年先というように見通しを持つことが可能です。
 しかしながら,社会的な状況下においては,その見通しは外発的に示されることが多くあります。それなりの立場に立てば,自ら見通しを対外的に示す機会もあるはずです。その見通しが示されない場合には,仕方なく,自分で自分なりに見通しを持たざるを得ない環境が生じます。たとえ,その見通しが,まとめ役なり総括の立場なりの人間の想定している見通しとズレていたとしても,です。
 その場合,自分の知識と経験から適切に判断した見通しに基づいて行動を起こし,進めていくことになりますが,いずれズレが表面化します。ズレが表面化してしまうと,まとめ役なり総括の立場なりの人間にとっては本意ではありませんから,自分はそうは思って(考えて)いなかったんだ,あのときはこう思って(考えて)いたんだ,だから言ったことではない,といういわゆる後出しじゃんけんがごとく,言及されてしまうことがあります。戸惑うとともに,一気呵成にモチベーションが下がってしまいます。それならば,最初に言ってほしかったものです。
 学校現場ではどうでしょうか?
 子どもたちは,毎単位時間,見通しを持って取り組むことができているでしょうか。それも,授業者の想定している見通しとズレることのない見通しを子どもたち全員が持ちながら,ゴールに向かうことができているでしょうか。私の経験では,授業の途中で,授業の冒頭では何も言われていなかった,見通しとして全く示されていなかった教育活動が,突然,授業者から提示される授業が散見されます。毎単位時間,そのような授業ばかりが続いたらどうでしょう。子どもたちに申し訳ないと思ってしまいます。
 小学校第1学年のときから,そのような授業を受け続けていれば,授業を受ける立場のそのときの自分としては,授業というのはそんなもんだとそれが当たり前になってしまうかもしれませんが,社会に出て自分で仕事を任されてやり始めてみると,なぜ授業というのは見通しを持たせてもらえないんだろうと不思議に思います。
 授業者が子どもたちに持たせたい見通しと,実際に子どもたちが自ら持つ見通しがズレない授業,それが『学び合い』の考え方を使った授業です。

 

全国大会を主管する

 先週末の日本科学教育学会の第46回目の全国大会(愛知教育大学主管)が無事に終わり,この週末には今度は日本理科教育学会の第72回目の全国大会(北海道教育大学旭川校主管)が控えています。ここ数年,東京オリンピック開催年度からは,日本理科教育学会と日本科学教育学会が9月のこの時期に2週続けて開催されるようになっています。
 私は両方の学会で全国大会を担当したことがありますが,全国大会を担当すると一言で言いますけれども,とても大変なことなのです。やったことのない人には分からないでしょう。大会運営は,参加人数や発表件数が増えれば増えるほど,大変さが増すことはご存じの通りです。特に,私が担当したときの日本理科教育学会の全国大会の時には,参加者が850人ほどになり,会場はキャンパス全部の教室を使っても,密接,密集の状態でした。いちばん,気を遣うのは機材の不具合もさることながら,やはり,参加されたみなさまが具合を悪くしないことと怪我をされないこと,元気にお越しになり元気にお帰りいただけることです。もしものときのことを想定してあらゆる準備をしましたが,お陰様で両大会ともみなさま元気でお越しになり元気にお帰りいただくことができました。感謝しています。
 本年度も,大会実施に当たり,実行委員会はじめ関係各位には相当ご苦労があったことと推察します。こればかりは担当した者でなければ分からないものですから,私自身が当時の苦労は語り尽くせませんから,おそらく毎年度担当者のみなさまは語り尽くせないほどのご苦労がおありであろうと思います。お陰様で元気に参加し,元気に戻ることができ喜んでいます。本当にお世話になりました。
 成功裏に終わったのは,ひとえに,実行委員会はじめ関係各位のご尽力の賜です。私どもの知らないところでのお力添えがあったからこそと,本当に有り難く思います。心から感謝し,敬意を表します。

 

発表の機会

 一昨日,1年ぶりに全国大会で自分で発表しました。歳を取ってくると,要請があってレビューのように発表する機会を除けば,一般研究発表として自分で自分の研究成果を発表する機会はめっきり減ります。私よりも年齢の上の研究者が自ら発表している姿を拝見する度に,最先端の研究に取り組んでおられる上に積極的に発表しておられる熱意に敬意を表しているところです。研究者としてはそれが当たり前なのかもしれませんが,それでも星の数ほどいる研究者の総数から見ると,限られた数であることは間違いありません。
 1年ぶりともなるとやはり緊張します。何十回と発表経験があるにもかかわらず,期間が空くとその感覚は変わりません。今日の発表を楽しもうと自分に言い聞かせますが,発表が始まるまではなんともしがたいものがあります。来週は,もう一つ別の学会の全国大会で発表する予定ですが,少し慣れたかなあとおもう感覚が蘇ってきている自分がいます。経験の尊さを感じます。いつまでも発表への挑戦を続けたいと思っています。

 

ひらめきは突然に

 著名な方が,朝のジョギング中にひらめくことがあるけれども,家に帰る頃には忘れているという内容の話をしていたことを思い出します。ひらめきは,いろいろなことを考えている中で突然にやってきます。しかしながら,そこからまた別のことを考え始めると,すぐに忘却の彼方に過ぎ去ってしまって二度とよみがえることはありません。そのひらめきがどれほどの価値のあるものであったとしても,です。
 今の世代なら,手元にスマホを置いて思いついたことひらめいたことをすぐにメモすることでしょうが,昔気質の私のような人間としてはどうしてもアナログに頼ってしまいます。私には,枕元の裏紙(メモ用)とペンとミニライトが必須アイテムです。夜中に目が覚めて,眠れなくなって考え事をしたときに何かひらめいたらそのときにその場で,ミニライトをつけて裏紙(メモ用)にペンでメモ書きして残しておきます。
 それがアイディアなら,翌日に付箋紙に書き写して目の前に張っておいたりテキスト文書で入力していちばん目立つフォルダに格納したりしておきます。それが翌日にすべきことがらであったならば,そのことが終わったら一つ一つ見え消しにして処理していきます。
 次から次へといろいろなことを考える習慣が身についてしまっているので,そのときに考えたことその考えたことによってひらめいたことを書き留めておかないと,次のことを考えるとそのことに集中してしまうがために忘却の彼方に去ってしまうからです。宝物は裏紙にあり。

 

元気をもらっています

 本学部では,半年に1回の割合で,1セメスターが終了する度に,教員と学生の二者でマン・ツー・マンの面談を行っています。修学指導面談です。コロナ禍の下,オンラインで行っています。本年度も,前期の授業が終了してまもなく後期が始まろうとしているこの時期に実施します。
 彼らとの面談は,彼らの新しい一面を発見することにつながり,彼らの良さをまた一つ見つけることができて嬉しいです。なんと言っても,彼らが画面の向こう側から元気な顔と声をこちらに届けてくれていることが何よりの元気をくれます。彼らが元気だと私も元気になって晴れやかな気持ちになります。後期もこの調子でがんばろうね,と最後に締めくくります。有意義な半年であったことを喜び,大切な半年であるように祈りながら,面談を終えています。B4のみなさまは,これが最後の修学指導面談となりました。彼らには感謝しかありません。

 

褒めてあげたい

 いくつになっても,初めてのことに挑戦して目標を達成したときは嬉しいものです。それも時間と試行錯誤をかければかけるほど,それは大きいように感じます。同じ目標達成でも,なぜできたのか分からないのにできてしまったときとか,自らの力量相当の目標設定でなかったときとかはそれほどではないような気がします。それでも,その達成や奮闘を評価してもらい,褒めてもらえるならばそれほど嬉しいことはありません。たとえ,目標達成がかなわないことがあったとしても,そこまでに至る過程を認めてもらえるようならばそれもうれしさが増します。
 けっして褒めてほしいがために物事に挑戦したり成し遂げたりするわけではありませんが,自らの必然性を持って事を起こすのですから,周りがどのように評価しようが自らの評価にてリフレクションが可能ですけれども,社会的な状況に心揺り動かされる面はあることは否めないと思います。
 もし自分だったらどんな言葉をかけてほしいだろうかなあと思い描きながら,子どもたちのがんばっている様子を見ています。私たちの知らないところで,どれだけの努力をし,何を悩み乗り越えてきているのかを把握できるように,ネットワークを張り巡らせたいと思います。目標達成したときの子どもたちを褒めてあげたいですし,目標達成できなかったときの子どもたちの努力を褒めてあげたいです。