見通しを持つことは重要でかつ大切です。見通しを持つことによって,自らの行動を発動したり制御したりすることができるからです。新たなアイディアを生み出すスケジュールを組むことも可能です。個人内に閉じている場合に自分一人の問題ですから,自分のペースで,1日先,1週間先,1ヶ月先,半年・1年先,そして10年先というように見通しを持つことが可能です。
しかしながら,社会的な状況下においては,その見通しは外発的に示されることが多くあります。それなりの立場に立てば,自ら見通しを対外的に示す機会もあるはずです。その見通しが示されない場合には,仕方なく,自分で自分なりに見通しを持たざるを得ない環境が生じます。たとえ,その見通しが,まとめ役なり総括の立場なりの人間の想定している見通しとズレていたとしても,です。
その場合,自分の知識と経験から適切に判断した見通しに基づいて行動を起こし,進めていくことになりますが,いずれズレが表面化します。ズレが表面化してしまうと,まとめ役なり総括の立場なりの人間にとっては本意ではありませんから,自分はそうは思って(考えて)いなかったんだ,あのときはこう思って(考えて)いたんだ,だから言ったことではない,といういわゆる後出しじゃんけんがごとく,言及されてしまうことがあります。戸惑うとともに,一気呵成にモチベーションが下がってしまいます。それならば,最初に言ってほしかったものです。
学校現場ではどうでしょうか?
子どもたちは,毎単位時間,見通しを持って取り組むことができているでしょうか。それも,授業者の想定している見通しとズレることのない見通しを子どもたち全員が持ちながら,ゴールに向かうことができているでしょうか。私の経験では,授業の途中で,授業の冒頭では何も言われていなかった,見通しとして全く示されていなかった教育活動が,突然,授業者から提示される授業が散見されます。毎単位時間,そのような授業ばかりが続いたらどうでしょう。子どもたちに申し訳ないと思ってしまいます。
小学校第1学年のときから,そのような授業を受け続けていれば,授業を受ける立場のそのときの自分としては,授業というのはそんなもんだとそれが当たり前になってしまうかもしれませんが,社会に出て自分で仕事を任されてやり始めてみると,なぜ授業というのは見通しを持たせてもらえないんだろうと不思議に思います。
授業者が子どもたちに持たせたい見通しと,実際に子どもたちが自ら持つ見通しがズレない授業,それが『学び合い』の考え方を使った授業です。