信濃の国からこんにちは

信州大学教育学部の三崎隆です。私たちの研究室は『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

消しゴムの文化

 消しゴムの文化が見られる1週間です。セメスターごとの定期試験の度に書いてきましたが,今回の後期試験のときもまた,消しゴムの文化を見ることができて感激します。試験を終えた学生のみなさまは,後片付けをすると机の上に出た消しゴムの削りカスを片手で集めて机の脇に寄せ,もう片方の手のひらでそれを一つとして逃さないように受け止めて,しっかり握りしめて退室します。室外にあるゴミ箱に捨てるのでしょう。いったい誰がこの文化を根付かせたのか不思議です。ドアの前で一旦立ち止まって,こちらを向き直って一礼して退室する学生のみなさまもいます。心に響き渡る瞬間です。

 

届いた宝物

 日本一の『学び合い』学校から宝物が届きました。子どもさんたちが書いたという文集の一部です。子どもさんたちが書いた内容を読みながら涙が出ました。研究室に一人でいて呼んでいるので声を上げさえしなければ泣いても誰にも迷惑はかけません。好きなだけ涙を出せます。嬉しい涙は,胸が熱くなってどんどん出てくるから不思議です。
 ものごとを客観的に見つめて冷静に分析する行為というのはなかなか難しいことです。どうしても私情が入るからです。かつて,”メダカの目”という学級通信を発行した学級担任がいてなるほどなあと思ったことがあります。メダカの目を通じて,学級内で起きていることを保護者の方々に冷静に伝えようとする試みです。自分の周りで起きていることがらを客観的に分析することさえ難しいことなのに,まして自分のこととなれば,まさに自分事ですから難しいです。
 ところが,涙が止まらなかった作文は,まさに自分ごとを冷静に見つめて自分のこと,学級のこと,友達のことをよく捉えている内容です。
 何度も経験を積んできた人間でも,そのときどきの環境になじんだりそれを嘆いたり,あるいはそれを諦めたりそれに対して腹立たしく思ったりするのですから,自己変革することは極めて難しいことであると思います。友だちを変えようとか学級をよくしようというのはもっと大変です。それだけに,子どもたち自身が,自らを変えていくことができたことや自らのことを率直に語ることのできるようになっておられることに敬意を表しています。
 さらには,その子どもたちが語っている先生の素晴らしさがにじみ出ています。こんな学級をつくりたいとかこの学級で過ごしたいとか思わせてくれる文化を創っておられることに感服しました。子どもたち自身に考えてもらって判断してもらい,子どもたちの出した結論をみんなで一緒にやっていこうという覚悟を持って臨んでおられるご様子がよく伝わってきて涙が流れます。それも,子どもたちの言葉で語られている点が凄いことです。日本一の『学び合い』学校だけあるなあと改めて思いました。
 こんな学校と,先生方と,そして子どもさんたちとご一緒できたことを光栄に思います。

 

困っていたときに

 先日,勤務している建物の1階にある大型シュレッダを利用しようと思ってスイッチを入れたところ,”チップを捨ててください”という表示が出て動かなくなりました。大型シュレッダなので,細かく砕かれた小さなチップといえども,捨てなければならないほどのメッセージが出されるとなると相当の量になります。一人の手には負いがたいくらいの体積と重量が目の前に迫ります。なんとか一人でやろうと思えば,することができる労力ではあるのですが,たまたま通りかかった同僚が私の苦労している(ように見えた?)姿を捉えた瞬間に走り寄って一緒にチップ廃棄作業(容器に設置されている90リットル用のビニール袋いっぱいのチップを取り出して口を閉めてから,新しい90リットルのビニール袋を容器に格納して,シュレッダ機械にはめ込む)を手伝ってくれました。嬉しかったです。見て見ぬふりをせず,ご自身の仕事を放り出してまで私の困り度を和らげてくれたのです。有り難いことです。お陰様で,作業が円滑に進み,効率的に作業を進行させることができました。困っている人を見捨てない同僚がいる環境が整っている今の職場が幸せです。本当にありがとうございました。

 

経験は尊いけれども

 経験は尊いものです。経験が知識となりスキルとなってその後のその人の言動の礎を創っていくからです。
 しかしながら,経験にこだわり続けることはその後の活動の停滞や支障を招きかねないことがあります。それは避けなければならないことです。経験はあくまでもそれまでの過去の経験でしかなく,その経験と同じ経験がこれからもずっと永遠に続くことはないと考えなければなりません。時々刻々変化していくものです。同じ経験をこのあとずっと繰り返して経験できる保証は何もないのです。良きことも悪しきことも。それは礎なので,それを踏まえて今後の自分の言動を慎重に検討していく必要を感じます。より良いものを求めて。常に挑戦です。
 学校現場でも,教師の経験に基づいてさまざまな教育活動があのときはこうだった,あれはそうだったとか,評価され,推進されていく実態があります。それらの経験は絶対的なもの,固定化されたものにし続けてはならないと思うところです。過去の経験に引きずられず,常に挑戦し続け,改善し続けたい。

 

Muse細胞

 再生医療の世界でMuse細胞が注目を浴びています。体内で病んだあるいは死滅した細胞から必要な情報を取り込んで,その細胞と同じ働きをして,その細胞の成り代わって機能するのだとか。なんと魅力溢れるエネルギッシュな細胞なのでしょうか,目を見張ります。体内で環境的文脈に依存して働いてくれる素晴らしいもののようです。発見した教授曰く「成功とか失敗という言葉は科学にはなじまない。ただ自然現象を見せてくれているだけなのですから」。まさにその通りであると共感します。理科でも,学生のみなさまに対しては同じことを伝えます。自然はただ,そのときの条件次第によって事実としての自然現象を我々に提供しているだけなのですから。
 これからの医療現場でより広くMuse細胞が有効に有用的に活用されることが期待されます。1日も早くと,心より願います。

 

最後の授業

 最後の授業が終わりました。今日から1週間の後期試験期間に入ります。長いようでしたが,終わってみればあっという間であったような気がします。いずれの授業も良い学生のみなさまに恵まれたことが幸せです。受講してくれたすべてのみなさまに心から感謝しています。ありがとうございました。

 

原則として

 「○○は原則として△△です」と言われることがよくあります。同じような表現に「等(など)」が用いられることもよくあることです。
 特定の事柄や現象を示すのですが,それにとどまらず,それに類似したことも含みます,という使い勝手の良い表現です。私もよく使ってしまいます。
 しかしながら,読み手にとっては,「原則ではないことはどのようなことがあるのですか?」と尋ねてみたくなります。おそらく,尋ねてみても期待倒れになることは見えていますが。読み手にとっては,ダメなものはダメと解釈するのですが,書き手にとっては,そうではありません。□□の内容なら許容範囲ですけれども××の内容なら許容できないとか。Aさんなら今回だけは認めてあげますけれどもBさんは何回も繰り返しているので認めてあげることはできません,とか。書き手の判断一つによって,いくらでも”原則”が自由自在に変えられていきます。それは書き手にしか分からないことなので,読み手には一切分かりようがありません。
 そうであるならば,最初から(公表する時点で),”原則”の操作的定義を具体的に列挙して,これは○だけれどもこれは×であるという,書き手の判断基準を全部明確に示してほしいものであると思います。
 『学び合い』の考え方では,子どもたちが活動に入る前にすべて公表します。”原則として”はありません。