信濃の国からこんにちは

信州大学教育学部の三崎隆です。私たちの研究室は『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

教師にとっての当たり前と子どもたちにとっての当たり前

 教師にとっての当たり前が,子どもたちにとっても当たり前ではありません。そんなことは当たり前なのですが,教壇に立っていざ授業を始めてみると,そんなことはすっ飛んでしまいます。
 自分が作った企画書,つまり学習指導案に書いてあること,つまり”ここでは子どもたちはこんな予想をして”,”ここではこんなふうにちゃんと探究して(調べて,観察,実験して)”,”ここでは子どもたちは考察して(つまり,教師がその単位時間に対して課した疑問に対する答えを導き出して)”などなどをちゃんと進めることが当たり前だと思ってしまうのです。
 実は,それは子どもたちにとっては当たり前ではないのですが,そんなことはこれっぽっちも授業が始まってしまうと思いません。子どもたちにとっては,教師に言われたこと示されたことに対して,教師が当たり前と思っていることなど,これっぽっちも知らないのですから,そんなことは当たり前ではないのです。教師が当たり前だと思っていることと違う反応が起きるのが当たり前です。
 そうなると,教師は,”なぜ,分からないのか”とか”なぜ,できないのか”とか思ってしまいます。教師,つまり授業をしている側にとっては,そんなことは当たり前なので,分からない・できないのは子どもたちに原因があると思ってしまいます。そうなると教師は,自分にとっての当たり前に子どもたちを導き入れようとしますから,子どもたちにとっては大変な時間の始まりです。なんとか,教師の当たり前に合わせようと必死になるからです。
 子どもたちには子どもたちの思考の論理があって,新たな情報に出会ったら,その論理を使って新たな事実や情報と折り合いをつけながら,自分の論理を再構成していくのです。間違っていけないことは,その過程は教師が導くものではなく,子どもたち自身が自分で創り上げていくものであることを理解することです。
 ですから,今日のミッション,今日のゴールだけは示しますが,そこに至る過程については,子どもたちに任せるべきです。ここまで書いてきましたように,ゴールに辿り着くまでの教師にとっての当たり前の過程と,子どもたちが辿る当たり前の過程は違うのですから。