信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

子どもたちの当たり前

 昨日,私たちが当たり前だと思っていることは実は当たり前ではないことであることを書きましたが,それは何も自然環境だけではありません。
 学校現場では,子どもたちが自分の当たり前の文脈の中で,当たり前ではない学校教育の文脈が示されて,自分にとって当たり前ではない環境の下で数多くのことを学んでいます。そこでは,自分の当たり前のことと教師から示される自分にとって当たり前ではないこととが自分の中でぶつかり合ってせめぎ合います。自分にとっての当たり前のことと自分にとっての当たり前ではないことがぶつかり合いますから,そこにずれが生じるのは自然の流れです。
 それこそ,私にとってはそれは当たり前のことです。そのずれを子どもたちは自分の中で折り合いを付けながら,埋めていくことになります。その作業が学習と呼ばれる現象です。教師は教師で,自分の当たり前を子どもたちに示して,子どもたちの当たり前,つまり自分にとっては当たり前ではないことを自分のとっての当たり前と同じようにさせようと”教え”たり”指導”したりします。
 子どもたちはそんなとき,いったいどうしているのでしょう。自分にとっての当たり前のことと教師から示される自分にとっては当たり前ではないこととの間に,うまく折り合いを付けることができれば良いですが,そうでない場合は,自分の当たり前を捨て去ってあるいは脇に置いておいて,教師の当たり前に合わせるようになるのかもしれません。一時的には。時間が経てば,知らず知らずのうちに,子どもたちが自分にとっての当たり前に戻すことは自明です。私たちは,自分の文脈に依存しながら生きているのです。
 教師の立場で語らせてもらえるとするならば,教師が,子どもたちの当たり前,つまり自分にとっては当たり前ではないことを自分にとっての当たり前に近づけようとするのか,それとも,子どもたちの当たり前に自分の当たり前を近づけようとするのかによって,その後の様子が変わってきます。
 これまでの学校教育においては,教師の持っている当たり前の文脈に,子どもたちの持つ当たり前の文脈を近づけようとすることが圧倒的に多く存在していたことは事実です。教師の持っている当たり前のことは,これまでの日本の学校教育において経験的に行われている,教科書に取り上げられている一般的なことである,多くの成果を上げている,科学史において圧倒的な量の事実によって実証されている普遍的なことである,子どもたちの持っている当たり前は科学的に誤りのことである,等々の理由に依ります。
 ところが,子どもたちの持っている当たり前のことに少し近づいて改めてよく見てみると,彼らの当たり前もすべて否定されるものではなく,その中には教師にとっても共感できる当たり前やなるほどと納得できる当たり前が潜んでいることを発見することができます。子どもたちの当たり前も,万人に共通する文脈の下で,教師もかつて育んできた当たり前であったことに気がつくことができる要素が潜んでいることも見つけることができます。
 子どもたちの持つ当たり前に近づいていってそれらを共に少しずつ変えていくことのできるような工夫を施していくことが求められてきています。どちらの当たり前も当たり前であってどちらの当たり前が間違っていると言うことなどはなく,当たり前が違っていて当たり前なのです。両者の当たり前のずれを両者で歩み寄りながら埋めていく努力をしていきたいものです。