信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

自分で考え判断できるように

 学生の中に教えてほしいという雰囲気が多く見られるようになったという話を聞きます。自分で学ぶというよりも教員に教えてもらおうということのようです。確かに,言われたことはしっかりやりますが,言われたこともできない場合もありますが,言われていないことはやらないできない,つまり自分で学ぶことをしないできない学生がいます。それは,何も最近に始まったことではなく,ずっと以前から散見されたことではあります。しかし,最近はその割合が多くなっているように思います。ただ,経験的に思っているだけであって,数値で有意差を議論できるものではありません。
 おそらく,小中高での学びの積み重ねによって現れている様態ではないかと推測されますが,危惧することは,自分で考え判断しない人材が育ってきているのではないかと言うことです。たとえば,「身だしなみを整えてください」と学生の皆さんに伝えたとします。学生の皆さんはどうするでしょうか。自分で考え判断して,こちらが求める行動を起こしてくれることを期待します。ところが,「言われていない」と言われることもしばしばです。そうなると,どうしても事細かく指示することになってしまいます。
 本学部の講義は1セメスターが1コマ100分授業で14コマで構成されています。私が担当している講義も,その14コマだけでは小学校や中学校の教員となって教える教科のすべてを網羅することはできません。学生の皆さんに対しては,「中学校で扱う内容をすべて取り扱うことはできません。本講義をきっかけにして受講生が十分に予習・復習をすることによって,中学校で扱う内容に習熟していってください。」と伝えています。学生のみなさんが学ぶためのきっかけとなる一部を提供しているのですから,みなさん自身が積極的に学んでほしいことも伝えています。
 小学校の時から,子どもたちがどのようにしたらより良くなるのか,教科の授業で言えば,どのようにしたら全員が目標達成できるのかを,自分で考え判断し,たとえエラーを起こしたとしても繰り返しトライしながら具体的な行動を起こし続けることのできる環境を整え,そのような人材を育てていくことが必要であると考えます。そのような子どもたちを育てることのできる学生を育てたいと思うところです。

マイ・○○,試行錯誤できる素材

 先月に続き,昨日1限のSTEMの講義。受講生のみなさんがこの半年に取り組んできたSTEMの教材開発の発表を聞かせてもらいました。一つひとつが内容の濃い物になっていて素晴らしいです。どれをとっても秀逸になっていることが見事です。多くの方は勘違いされているないしは明確に答えられないと思うところですが,教科横断による教材とSTEMの教材の違いは明確です。STEM教材のキー・ワードは,マイ・○○,試行錯誤できる素材です。彼らから学びことの多さに感謝します。

会話から面白いことが見えてくる

 長野県のいなかのある地方では,10年住み続けたら住人として認めてもられるという話を聞くことがあります。それだけ,両者にとって折り合いを付けるのがなかなか難しい証であろうと推測されます。もともとの住人のみなさんにとっては,自分たちの文化があるのでその文化の文脈で生活を共有したいという思いでしょう。一方で,新しく住み始める人たちにとっては,それまで培っていた文化があるので自分たちの文脈を大切にしながら住みたいという思いがあるでしょう。互いの文化が融合し折り合いが付くための年月として10年が必要だと言う経験則なのではないでしょうか。
 自分のそれまでに持っていた文脈と,自分と異なる別の文脈とが接触する場合には,好むと好まざるとに関わらず,葛藤や衝突が生じます。コンフリクト(conflict)です。それをいかにして和らげることができるのかが,心穏やかに過ごすことができるかどうかの重要な分かれ目です。ゼロにできればそれに越したことはありませんが,おそらく無理です。急激にできる人と穏やかにできる人との違いはあるでしょうが,現代社会においてはそれを可能にすることが生き残るための必須事項であろうと思われます。ことわざがあるくらいですから,先人たちの苦労と知恵が伝わってきます。
 急激な折り合いを望んだ場合には直接的な衝突が避けられなくなるのかもしれませんので,穏やかな折り合いを付けるのに冒頭の10年という年月が経験上,必要であると捉えられているのかもしれません。大人の社会にもあるのですから,子どもたちの社会にも存在します。学校現場の教科の授業で交わされる会話を分析してみると,面白いことが見えてきます。自分の文脈を主張して相手の文脈に折り合いを付けない会話が現れます。強制ケースの会話と呼ばれています。その一方で,自分の文脈を置いてでも相手の文脈を優先しようとする会話が現れます。安易合意ケースと呼ばれています。相互に自分の文脈だけを主張し合っていて,時に平行線を辿ってしまう会話があります。無関心ケースと呼ばれています。
 主体的対話的な深い学びが求められているからといって,話し合いをさせれば良いと思っているかもしれませんが,ただ単に話し合いをさせているだけでは,前述の3つのタイプの会話しか現れないことがよく知られています。たとえば,無関心ケースの会話であったとしても,お互いが自らの文脈だけで主張し合いますから,表面的には現象論的には,各人がとても主体的ですし第三者としてみれば対話的です。ところが,中身は,お伝えしているようにそれぞれの言いたいことを言いたい文脈で主張しているだけなので,全く広がりも深まりもありません。果たしてそれで良いのでしょうか?
 「私の言うことを認めたら仲間に入れてあげる」という強制ケースや無関心ケースだけの文脈になったとしたら,冒頭のある地方と同じことになりかねないでしょう。私たちは,表面的,現象論的に闊達に会話が成されていることだけを良しとするものではないはずです。お互いに自らの経験を語り合って根拠を示し,聞き手が納得できるような会話を求めているのではないでしょうか。自分の文脈で語りつつ相手の文脈を考えながら相手の主張をよく聞いて,お互いの文脈から語られることについてどのようにして折り合いをつけることができるのかをお互いに検討し具体化できる会話を交わすことのできる人材を育てるべきものです。

相手の文脈で語る

 スキーの季節がやってきました。スキーを楽しみにしている人は大勢いるでしょう。30年ほど前ならば,リフトに乗るのに2時間待ちをしたほど混雑していた物ですが,最近はそうでもないようですけれども,それでもスキーをしに長野県に来てくださる方も多いはずです。今年のコロナ禍下では我慢して控える方もいるかもしれません。しかし,雪国に生活する人間としては,やはり雪は少ない方が有り難い,というよりも降らない方が有り難いと思うところです。何十年も雪国で生活しているとそう思います。
 文脈が異なるので,その文脈に依存した文化を持たなければ,その文脈下での議論はなかなか理解できないところがあるものです。同じ事物なり同じ現象なりを見たり考えたりするときに,自分の文脈でとらえる場合と相手の文脈でとらえる場合には,評価が異なってきます。学校現場の教科の授業は,まさにそれです。
 先日,本学の次期学長候補者による説明会が行われました。みなさん素晴らしい方々です。教育学部の文脈で語ってくださる方がいれば,自らの主張をメインにして将来像を熱く語る方がいます。当学部長は,すべての候補者に対して,教育学部に対して期待することは何かを質問していました。次期学長が我々の学部に対して何を求めようとしているのかは注目されるところです。期待することを,当学部の文脈で語ってくださる候補者と自らの主張をされる候補者がいます。どのような文脈で語るのかは,相手との関係を大きく左右する物です。

スキーの季節がやってきた

 スキー授業の季節がやってきました。雪国では小学校第1学年からスキー授業があります。今年はコロナ禍の下なので難しいかもしれません。かつて,中学校現場で理科と保健体育の教科横断的な試みをしたことがあります。スキーの技術とその科学的な根拠についてです。一例を挙げれば,ボーゲンやシュテム・ターンをするときに,なぜ体重移動をしなければならないのかについて理論的に理科で学びます。それを技術的に保健体育で学びます。
 理科では,黒板やホワイト・ボードにスキーの絵を描いて,体重移動のコツを科学的に解説します。ポイントを講義しながら子どもたちの理解を促します。理解できたかどうかは紙媒体でのテストで把握できます。黒板の前で,実際の体重移動を模範演技として見せてあげます。体重移動の様子を絵で表してテストしてみます。子どもたちが全員満点を取りました。さて,子どもたちは滑ることができるようになるでしょうか?
 授業者がいくら何度も繰り返して黒板に書いてスキー上達のコツを解説したとしてもテストで全員が満点を取ったとしても,子どもたちにさせてみなければ子どもたちは分かりませんし,できません。何度もトライ・アンド・エラーさせてみなければ分かりませんし,できないことは自明です。
 そのスキー授業で困らないようにするためには,就学前から家の周りの雪と戯れ,慣れてきたらスキー場に連れて行って,ソリから滑らせます。ソリに慣れたらスキーを履かせて歩かせます。一緒になって少し滑ってみます。転びます。起こしてあげてもう一度一緒に滑ります。また転びます。また起こしてあげてもう一度一緒に滑ります。転んでも褒めてあげます。なんとか一人でちょっと滑ることができるようになったら,滑る距離を少しずつ長くして試します。もっと褒めてあげます。そう,トライ・アンド・エラーです。その繰り返しです。
 それを繰り返していると,いつの間にか,そう本当にいつの間にか,ふっと後ろを振り向くと,いつも遠くで私の指示を待っていたはずなのに,すぐ後ろから付いてくるようになります。とおくであれしろ,そんなことしちゃだめ,もっとこうやって,と言っていてもうまくはなりません。トライさせてエラーして,またトライさせてエラーしての繰り返しです。そうやって,はじめて理解し,滑ることができるようになるのです。教師がレールを敷いていたとしてもスキーは絶対に上達できません。エラー覚悟でトライさせてあげなければ,それを繰り返させてあげなければ,その余裕を持たなければダメです。
 スキーの話をすると,理解してもらえます。毎日の授業でもやってみましょう。

尽きることのない諸問題

 『学び合い』の考え方が確立して20年近くになりますが,毎年,『学び合い』の考え方の授業をしている学校現場に卒論の調査に行っています。3~4人のゼミ生が毎年『学び合い』の考え方の学校にお世話になっているとすると,40テーマくらいの卒論が仕上がっている計算になります。一つの分野で,10年以上に渡って一貫した教育研究のテーマが続くことは珍しいことです。
 それだけ,『学び合い』の考え方が普遍的であることの証ですし,『学び合い』の考え方ではない授業においては問題が山積している証でもあります。ゼミ生が見つけてくるテーマは,学校現場で解決できない問題として存在しているものばかりであり,それらが卒論のテーマとして成り立っているものです。『学び合い』の考え方でないと解決できない諸問題がまだまだあることも事実ですし,卒論のテーマとして尽きることはありません。
 学校現場でこれまで着目されずにいた諸問題が解決され,子どもたちが一人も見捨てられず,彼らの学びがより充実したものになっていくことができればそれほど嬉しいことはありません。ゼミ生とともに力を尽くしたいと願うところです。

分かると分からないと

 分かると嬉しくなりますし,満足感,充実感を味わいます。面白くてその教科が好きになります。ところが,分からないととたんにやる気が失せますし,面白くなく,嫌いになります。その教科を好きになるかどうかは分かるかどうかに依存することが知られています。まして,周りの人たちが分かった状況が生じると,自分だけ取り残されているようでとても辛いものです。
 以前,現職のみなさまを対象として,『学び合い』の考え方による模擬授業をしたときに,次から次へと分かったという声が聞こえていくので,まだ分からなくて困っている人は,うるささといらだちとあせりを感じるという感想をもらったことがあります。さもありなんです。その気持ちはよく分かります。あっちで,分かったという声がして,こっちでも分かったという声がして,向こうでも分かったという声がしたら,自分がまだ分かっていないだけに,考えている最中にうるさいなあと思うでしょうし,早く分からなければとあせってしまったりいらだちを覚えてしまったりするでしょう。当たり前のことかもしれません。
 私にも経験がありますが,そんなときに,周りの人たちが誰も自分に声をかけてくれなかったり自分と同じ力量であると思っていた人だからあの人なら自分と同じように分からないだろうなあと思っている人が分かったりした場合には,悲しい思いを持つことになります。
 初めてのことばかりなのですから,最初はみんな分からないところからのスタートです。分からなくて当たり前なのですし,みんなが一斉に同時に分かるようになることなどあり得ないのですから,分からないことからどのような形であったとしても抜け出させてあげられることを考えたいものです。分からないことのつらさを共有したいです。