長野県のいなかのある地方では,10年住み続けたら住人として認めてもられるという話を聞くことがあります。それだけ,両者にとって折り合いを付けるのがなかなか難しい証であろうと推測されます。もともとの住人のみなさんにとっては,自分たちの文化があるのでその文化の文脈で生活を共有したいという思いでしょう。一方で,新しく住み始める人たちにとっては,それまで培っていた文化があるので自分たちの文脈を大切にしながら住みたいという思いがあるでしょう。互いの文化が融合し折り合いが付くための年月として10年が必要だと言う経験則なのではないでしょうか。
自分のそれまでに持っていた文脈と,自分と異なる別の文脈とが接触する場合には,好むと好まざるとに関わらず,葛藤や衝突が生じます。コンフリクト(conflict)です。それをいかにして和らげることができるのかが,心穏やかに過ごすことができるかどうかの重要な分かれ目です。ゼロにできればそれに越したことはありませんが,おそらく無理です。急激にできる人と穏やかにできる人との違いはあるでしょうが,現代社会においてはそれを可能にすることが生き残るための必須事項であろうと思われます。ことわざがあるくらいですから,先人たちの苦労と知恵が伝わってきます。
急激な折り合いを望んだ場合には直接的な衝突が避けられなくなるのかもしれませんので,穏やかな折り合いを付けるのに冒頭の10年という年月が経験上,必要であると捉えられているのかもしれません。大人の社会にもあるのですから,子どもたちの社会にも存在します。学校現場の教科の授業で交わされる会話を分析してみると,面白いことが見えてきます。自分の文脈を主張して相手の文脈に折り合いを付けない会話が現れます。強制ケースの会話と呼ばれています。その一方で,自分の文脈を置いてでも相手の文脈を優先しようとする会話が現れます。安易合意ケースと呼ばれています。相互に自分の文脈だけを主張し合っていて,時に平行線を辿ってしまう会話があります。無関心ケースと呼ばれています。
主体的対話的な深い学びが求められているからといって,話し合いをさせれば良いと思っているかもしれませんが,ただ単に話し合いをさせているだけでは,前述の3つのタイプの会話しか現れないことがよく知られています。たとえば,無関心ケースの会話であったとしても,お互いが自らの文脈だけで主張し合いますから,表面的には現象論的には,各人がとても主体的ですし第三者としてみれば対話的です。ところが,中身は,お伝えしているようにそれぞれの言いたいことを言いたい文脈で主張しているだけなので,全く広がりも深まりもありません。果たしてそれで良いのでしょうか?
「私の言うことを認めたら仲間に入れてあげる」という強制ケースや無関心ケースだけの文脈になったとしたら,冒頭のある地方と同じことになりかねないでしょう。私たちは,表面的,現象論的に闊達に会話が成されていることだけを良しとするものではないはずです。お互いに自らの経験を語り合って根拠を示し,聞き手が納得できるような会話を求めているのではないでしょうか。自分の文脈で語りつつ相手の文脈を考えながら相手の主張をよく聞いて,お互いの文脈から語られることについてどのようにして折り合いをつけることができるのかをお互いに検討し具体化できる会話を交わすことのできる人材を育てるべきものです。