信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

今をどう生きる?

 論文を書いて投稿すると,その論文の査読が通って学会に掲載されて公開されるまでに早くても1年はかかります。かかる場合は,2年近く待つこともあるほどです。その論文を書くために構想を練ってデータを取ったのはさらにその1年程前ですから,その教育研究への着想は今から2年から3年ほどまえの独創性でありオリジナリティであることが普通です。そうなると,それはもう,過去のものでしかなくなります。
 一つの着想が終わってそれの作業にめどが立つと,経たなくても次の着想に取りかかりますから,オリジナルな着想をもって教育研究をし続けていると,一つのオリジナルな着想はどんどんと過去に過ぎ去っていきます。今,このときにどのようなオリジナルな着想を持ち続けているのかが勝負なのです。世に公開される論文の着想は,2年も前の着想です。今,どう生きるかが勝負です。

 

単元内自由進度学習

 長野県教育委員会は,2020年度から単元内自由進度学習を始めたと昨日の新聞報道にありました。今年の2月には個別最適な学びに転換する意向を表明し,より一層の単元内自由進度学習を推し進めようとしています。福島小学校と城南小学校の事例が紹介されていました。子どもたち一人一人の学びが保証されることを期待します。一人一人というのは簡単ですが,現実的には極めて難しいことを学校現場で務めているみなさまはよく知っています。子どもたちのために頑張ってほしいと願ってやみません。

 

目の前の桜

 小学校や中学校の校地内にソメイヨシノが植えられている光景はよく見ます。この時期は入学式が執り行われるので,新入生を迎えてくれています。大学のキャンパスにも意外かもしれませんが,ソメイヨシノが植えられています。大学は小学校や中学校ほど各地に建っているわけではないので,目にする機会があまりないからかもしれません。
 私の研究室の窓の外の目の前にも,そのソメイヨシノが植えられていて,今まさにサクラの花びらが散っています。1枚1枚ひらひらと。まるで小雪が舞い散るがごとく。木々の芽吹きとともに色鮮やかで風情があります。この文章を入力している真っ最中に,窓からクマンバチが遊びに入ってきました。こちらは大慌てです。春最中を感じます。

 

自分ができたらどうする?

 『学び合い』の考え方が適切に機能するか否かは,自分が目標達成したそのあとをどうするかに依存するような気がしてなりません。どうしても,自分の目標達成は必死になりますが,自分が目標達成したらほっと一安心するのが一般的です。達成感,安心感と充実感に満たされるからでしょう。自分が終われば,それで良し,となるわけです。そうなると,『学び合い』の考え方が十分に共有されているとは言い難い現象が現れてしまいます。
 自分が終わったら,さあ次はどうするか,それを自分でどのように考えて判断できるか,その上でどのような行動を取ることができるのか,が問われます。『学び合い』の考え方の真価が問われるわけです。自分ができるまでになっていた必死さを,そのまま,自分以外の友だちが全員できるまで維持できるか否かが,『学び合い』の考え方の成功の鍵となります。
 その意味では,子どもたちがどれだけ必死になっているのかを見極めることができるようになってもらえることが望ましいと言えます。

 

助けてあげることとは?

 助けてもらうことは比較的簡単です。それは,自分が困っていることは自分が一番よく分かっていて,それが解消されるからです。それに対して,助けてあげることは難しいことです。相手が何に対して困っているかを見極めて何をしてあげることが相手を助けてあげることになるのかを正しく判断して行動しなければならないからです。小さな親切,大きなお世話,と言われることがあるくらいですから。自分が相手を助けてあげていると思っていても,実は実際の所,自分が相手に助けてもらっているということもあります。
 目標達成できずに困っている子やよく分からなくて困っている子に,答えを教えてあげるだけのことが助けてあげることでしょうか?「早く答えを書いて」と言っている場面を見ることがあります。確かに,それは表面的には全員が目標達成するこtにつながることかもしれませんが,よく分からなくて困っている子に対して,答えを書かせて終わりにsルウ庫とは,その子を助けてあげていることにつながるのでしょうか?みなさんはどのようにお考えですか?
 授業の時に,助けてあげると言うのは,よく分からなくても困っている子が,誰にも頼らず二次分一人で問題を解決できるようにしてあげること,ないしはその糸口を見つけてあげること,次に同じような問題にぶつかったときに自分一人で出来るようになって周りで困っている子を今度は助けてあげることができるようにしてあげることなのではないでしょうか?
 「早く答えを書いて」の先に待っているのは,「早く答えを教えろよ」のような気がしてなりません。

 

『学び合い』の考え方を共有することの難しさ

 『学び合い』の考え方で授業を実践する場合に難しく感じさせるのは,考え方を以下にして全員で共有するかというyことです。一見,共有しているかのように見えても,それがあくあmでも表面的なものでしかなかった場合には,すぐにほころびてしまいます。共有できていないかとどうかの見極めは,当然のことながら,全ての子が一人も見捨てない強い意思を持ち,全ての事柄をその意思に基づいて判断し,どんなときもいかなることでも一人も見捨てない行動を一貫してとり続けているかどうかです。誰一人としてそれができない子がいないことです。
 どのような具体的な現象が表出するのか抽象的で難しいので,その見極めは困難を極めます。それを分かりやすく具体化するのが,みんなでみんなが目標達成できることです。ただ,形式的に全員の目標達成を果たしているだけでは意味がないので,そうならないように慎重に語ってあげることが大切です。「あなたは本当に友だちを誰一人として見捨てていませんか?」と。「友だちが困っているのに,助けてあげることをあきら馬手いませんか?」とも。

 

4月は授業改善の良い機会

 日本の学校教育に携わる者として,授業改善にとって,4月は良い機会をもたらしてくれます。これまでの自分の教育実践を振り返ったときに,改善を必要とする点があった場合には,新たに試みるきっかけとなるリセットのタイミングを与えてくれるのも4月という節目だからです。私の場合で言わせてもらえば,学生の授業評価がありますから,その評価結果を踏まえて改善する余地のある点を修正して次のセメスターに臨んでいます。ある意味では,先輩たちからの贈り物と言えるかもしれません。その意味では,改善しなくて良い年度はありませんから,毎回より良いであろうと判断できる授業へと改善し続けていると言えます。本年度も授業改善します。果たして,学生による授業評価は良くなるでしょうか?