信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

分からない子に何をしてあげてますか?

 なぜ,分からない子がいたときに,その子が分かるまで何か手立てを講じようと力を尽くさないのでしょうか?分からない子が分からないのはその子の努力不足だとでも思っているのでしょうか?どうも私にはそのように思えて仕方がありません。それって,今流に言わせてもらえれば,アカハラに該当しかねないことではないかとも思えないのでしょうか?少なくとも,クラスの全員に対して,分からない子に対してしていることが明確に伝わるようなやり方で助けてあげることが重要でかつ大切であると思うのです。
 その理由は以下の通りです。
 先生が分からない子に対して何も手立てを講じないアプローチの様子は,アプローチとは言わないのかもしれませんが,何もしない様子はその空間内にいる集団つまりクラスの子どもたちは全員が見ています。「ああ,あの先生は,分からないあの子をほっていてるなあ」と。ほっとかれている,何もされていない様子はすぐにそのクラスの全員に伝わりますから,そのクラスの子どもたちも全員,分からないその子をほおっとくようになります。「先生が何もしないんだから,自分たちも何もしなくていいんだなあ」と。
 何もしなくてもいいと言うことは仲間はずれにしてもいいということにつながりかないということを私は危惧します。それって,無視とかいじめにつながる要素を含んでいると思うのですが,そう思うのは私だけでしょうか?拡大解釈と言われるかもしれませんが,先生が何もしないと言うことは,クラスにいる子どもたちにとっても何もしなくてもいいことになってしまうのです。何もしないと言うことは,ごく自然に仲間はずれになりませんか?
 分からない子をほおっておく,などということは授業中にされていないと思いますが,それでも,分からない子に先生が何もしない,少なくともクラスの中で何もメッセージを発しないということは,子どもたちにその場で即時的に強烈な,それも暗黙のメッセージとして伝わっていることを再認識すべきです。あなたは,授業中に分からない子に何をしてあげていますか?