「ゲートキーパーの存在しないことが,分かる子と分からない子を生んでいる。」(西川純:なぜ理科は難しいといわれるのか,p.104,東洋館出版社,1999.)「学びが成立するか否かを決定するのは,教え手ではなく学び手である」(西川純:勉強をしなさい!を言わない授業,p.166,東洋館出版社,2006.)。前者は24年前,後者は17年前の言葉です。
未だに色あせないどころか,学校現場のみならず,あらゆる学びの場において当てはまるほど光を放っている貴重な金言です。
あなたの授業では,授業中にゲートキーパーが現れていますか?自己評価してみてください。あなたがゲートキーパーを意図的に作っているのではありませんか?もしそうであるとするならば,後者の言葉がひっかかってしまって,分からない子の学びは成立していないのですよ。あなたが作ったゲートキーパーでは,教え手(つまり分かる子)の学びは成立しますが,学び手の学びの成立の可否を決めるまでには至らないのです。
学び手つまり分からない子のゲートキーパーが必要なのです。でも,考えてみてください。分からない子にとって良いゲートキーパーなど,自分(教師)になんか分かるはずがないと思いませんか?そう,分かるはずはないのです。もし自分には分かると思っているとするならば,それは自己満足に過ぎません。分からない子にとって良いゲートキーパーは分からない子にしか分からないのです。
だからこそ,分からない子に任せてみましょう。「君にとっていちばん良いと思うゲートキーパーを探してみようよ」と。「(あなたにとっていちばん良いゲートキーパーなんか)先生には決められないなあ」と。それが『学び合い』の考え方です。