信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

なぜ学ぶのか

 私たちは,なぜ学ぶのかという問いに対してどれだけ応えているでしょうか,答えているのでしょうか?それも,毎単位時間で?
 かつて中学生であった50数年前のときには,全く当たり前のように次の日の時間割が後ろの黒板に書かれていて,それも日直が各役割を担っていましたから,尚更のこと当たり前のごとく書かれているのを写して帰りますから,明日の時間割を学ぶことなど当たり前であって,悩むことも立ち止まって考えることもましてなぜ学ぶのかなどということなどひとかけらも頭をよぎることはなかったことを思い出すことができます。
 なぜ学ぶのか,ということを考えることがなかったということです。考えなかったわけではありません。何を考えていたのかと思い出してみれば,いかにしてテストの点数を取るか,そのためにはどのようにしたらより効率的なのか,いかにして暗記することが良いのか,あるいはいかに良いパフォーマンスをするのか,先生の問いに対して答えをどのように導き出して発言したら良いのか,そしてもう一つ言わせてもらえれば,いかにして部活動の大会に勝つか,いかにしてというのはどのように筋肉を付けたら良いかどのような作戦,つまりどのようなサーブを出して何球目に攻撃をどこにどのような回転で打ち返すかそのためにはラケッような角度で出して引いてどのようなスピードでボールとの接触を試みたら良いのかトをボールに対してどの(ちなみに卓球の話です),です。
 リフレクションする限り,学ぶこと自体が義務付けられている(?)文脈下で,学ばざるを得ない状況が生じていたような気がしてなりません。なぜ学ぶのかを考えるよりも,学ぶことは必須であると位置づけられていただけにいかにして学ぶのかを考えることに必死であったように思われます。
 子どもたちの学びへの興味・関心も大切にしながら,なぜ学ぶのかに対する応え,答えを用意しておきたいものです。