信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

意思のコントロール下

 我々の筋肉には不随意筋と随意筋があることが知られています。

 前者は我々の意思とは無関係に自動的に動きますが,後者は我々の意思のコントロールに置かれます。後者の筋肉もトレーニングによっては,不随意筋のごとく振る舞うことも知られています。脚気の検査として知られているように,反射と呼ばれる現象はその一つです。

 反射ほどではないですが,我々の動作や行動も繰り返し行うことによって,その動作や行動が当たり前になってきて意識せずとも動かしたり行ったりすることができるようになります。自動化と呼ばれる現象です。

 随意筋ですから,我々の意思のコントロール下に置かれてはいるのですが,あたかも我々の意思が働いていないかのように,ごく当たり前にその動作や行動を行うことができるのです。不思議な現象です。人間の体というのは実に精巧にできているなあと感じるところです。

 ところが,この自動化ですが,良い意味で評価される側面もあれば,困った意味で評価される側面もあるからやっかいです。

 前者の場合は,ごく身近なところで言えば,我々の歩行や走行がまさにそれに当たります。歩いたり走ったりする動作や行動は,我々の意思のコントロール下に置かれてはいるのですが,その都度,我々の意思を手足の筋肉に伝えていることはしません。もし,その都度意思を伝えることを始めたら,歩行や走行の動作や行動がぎこちなくなります。

 一方で,学校現場で行われることの多い,いわゆる教える行為については,困った現象が起きることが知られています。自分としては分かりやすく教えているつもりなのに,相手にとっては,どこか省略されていて分かりにくい説明になっていることがよくあります。教える内容について,教える側にとっては教えるという意思を働かせてい入るものの,実はどこかで意思のコントロールからはずれてしまっていることがあるからです。

 教える,その内容について,教える側にとっては何度も繰り返し動作や行動を起こしていることによって,知らず知らずのうちに自分の意思のコントロール下にあるにもかかわらず,コントロール下にあることを意識できずに行うことができるようになってしまっていることに依ります。

 歩行や走行のように,本人が特に意識せずともできてしまうからこそ,なかなか,難しいことです。