信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

誰にとっての主体的?

 昔の話です。52から53年も前のこと,当時,学校教育の授業では必ず先生のお気に入りの児童生徒がいたものです。その子が発言すると,先生はその子の発言を基に授業を進めます。まさに,その先生にとってはその子は主体的として評価されたのでしょう。期待通りの発言をし,期待通りの行動を起こすからです。その子は,先生が何を考えていてどのような授業展開になるのか予測が付いて,今どのような発言が求められているのかが分かる力量の持ち主だったからです。つまり,先生と同じレベルの力量を持ち合わせた児童生徒ということです。
 私は,その先生にとって間違いなく主体的ではありませんでした。私の発言はその先生が何を期待しているのか分からずに,とんちんかんちんな発言ばかりしていたからです。先生には期待されていない子どもでした。先生が次に何を求めているのか分からないのですから,必然的に,先生の指示を待ちます。へたに主体的になって(あくまでも先生にとっての主体的ではなく,自分にとっての主体的という意味です),先生の想定している授業展開からはみ出してしまったり外れてしまったりして,ひんしゅくを買わないようにしなければなりませんでした。それが私の当時の授業中の心がけです。
 子ども心に考えたことは,へたに思ったまま考えたままを率直に発言して,先生の期待する主体的から外れるよりは,全く評価されない(時には無視されたり強く個別指導されたり)よりは,先生が期待する次の発言なり次の行動なりを指示してもらって(指示待ち人間に徹して)それに則って行動を起こした方が無難であるということです。その方が,その先生からは,その先生のお気に入りの子ほどではないにしても,低いレベルであったとしても,まあまあそれなりに主体的な方かなあと評価される可能性が高まるからです。
 さて,今の日本の学校教育はどうでしょう?
 主体的対話的で深い学びが求められていますが,誰にとっての主体的でしょうか?
 今でも,53年も前の日本の学校教育と同じことが行われていませんか?
 先生が敷いたレールの上をひたすら走り続ける子どもたちが,レールを敷いたその先生にとっての主体的として評価されていませんか?先生が発話した事柄に対して,その先生の期待通りの発言をする子どもたちだけが重宝されて,その子にとって主体的であってもその先生にとって主体的とは言えない,評価されない,歓迎されない,できればそのような内容の発言はしてほしくないような発言をする子どもたちがときには排除されてはいないでしょうか?排除されないまでも,いわゆるスルーされてはいないでしょうか?
 もし仮に,そのような現象が存在しているものであるとするならば,そのような先生の下で学ぶ子どもたちは残念ながら,その先生の次の指示を待つことになりませんか?53年前の私なら,間違いなく,指示待ち人間になっていることでしょう。だって,へたに発言して,その先生の考える主体的に合致しないとするならば,発言・行動せずに黙ってその先生の指示に従って動く方がその先生の敷いたレール上はその先生にとっては順調に進むのではないですか?その先生の考える通りにその先生の企画した授業が進んで,参観した第三者からは良い授業として評価されるように思われます。
 もし今でも,53年前と同じ授業が展開しているとするならば,指示待ち人間が現れてしまうのは必然と言えます。
 出発駅と終着駅は先生が指定しますが,レールは先生が敷くのではなく,子どもたちが自分で自分のレールを敷くのです。主体的とは,その先生にとっての主体的ではなく,子どもたちにとっての主体的なのです。