信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

教えたはずなのに教えてもらっていない

 授業を参観していると,一人の子どもが別のもう一人の子どもに一生懸命関わっている光景を目にすることがあります。一見すると,つまり現象論的には,教えたり教えられたりしている関わりがあるように解釈します。しかしながら,実際には,当人同士の間でどのような認識が起きているのかは当人にしか分かりません。
 授業が終わってからアンケートを取って調査してみたことがあります。以前に何回も書いてきたことですが,教えたと思っている子どもたちのうち,教えたと思っている相手が教えてもらったと実際にとらえている割合は約6割です。一方,教えてもらったと思っている子どもたちのうち,教えてくれた相手が実際に教えたととらえている割合も約6割です(「川上早苗・三崎隆:「中学校理科の『学び合い』授業での「学び手」と「教え手」に関する研究」,臨床教科教育学会誌,9(2),29-35,臨床教科教育学会,2009.」)。
 教えている側が教えていると思っていても,教えられているように見える側が教えてもらったと認識していないケースが結構あるのです。また,教えてもらっている側が教えてもらったと認識していたとしても,その相手となる教える側が教えていると認識しているかどうかは別物です。
 だれも教えたと言っていないのに,教えてもらったと認識している子どもたちが結構な人数存在しますから,世に言う学び上手と言われる子どもたちが授業中にかなりの割合で存在していることになります。子どもたちは,どこでだれからどんなことを学んでいるのかは,当人にしか分からないのです。教えたでしょと言ったとしても,その相手の子が教えてもらったと認識しているかどうかはその子にしか分からないのと同じように。