信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

褒めるときのヒドゥン・メッセージ

 叱るときは全員の前で叱らずに,その子を呼んで個人的に叱りなさい,とは良くいわれることです。褒めるときも同じようなことが言えるのではないかと最近よく思います。褒めるときは,全員の前で褒めるべきではなくその子を呼んで個人的に褒めるべきであると。その子にとっては,全員の前で褒めてもらうことの方が良いのでしょうがその周りにいる子にとっては全員の前で褒められることがどうなのか,嫉妬や叱責の対象になりかねないという点,褒めるという行為は褒める側がそうなりなさいという強いメッセージを発していることから強い集団指導の危険性がある,褒められたいからおまえはいらないに陥る可能性が潜んでいる点であるからです。褒めるときは叱るとき同様に,慎重にすべきです。
 褒められたことが褒められた本人にとっては,当たり前のことであった場合には褒められた者に対しては褒めていることにならずに,単にからかわれたと受け止められかねないこともあります。褒められる対象が本当に自分で努力しがんばった結果,成果が伴って現れたときにこそ,その点を真に褒めてあげることが必要です。そう考えると,褒める行為もなかなか難しいです。いつものところに帰着しますが,折り合いをどうつけるかは永遠の課題です。
 かつて,学年主任をしていた頃に,学年通信を毎日発行していました。そのときに,学年の子どもたち全員の良いところをたくさん見つけて学年通信に載せて褒めてあげるように心がけていました。ところが,ある保護者からある夜に自宅に電話がかかってきてお叱りを受けたことがあります。他の子どもたちばかり褒めて,自分の子どもは褒められていないと。褒められる回数が少ないとも。全員が均等になるように掲載した回数を一人一人記録し,鋭意努力してはいたつもりですが,褒めることの一方で褒められないことに対する保護者のみなさんのいたたまれない気持ちが行動となって表れたものと解釈しています。
 目の前でAさんが「あなたの○○は素晴らしい」ということを褒められる場合,その一方で,それを聞いている他のみなさんは「Aさんに比べてあなたの○○はすごくない,褒めるに値しない」と言われているわけです。ヒドゥン・メッセージです。卑下されているものではないにしても,文脈次第ではそのように受け止められても致し方ありませんし,褒める側はおそらく自分がヒドゥン・メッセージを発しているなどとは全く意識していないでしょう。
 情報を発信する側は全く意図していないことであったとしても受信側は誤解して自らの文脈下で解釈するがために起き得る認識のズレです。日常生活の中では難しいことであることは重々承知の上ですが,自分の文脈で語り始めるときに,ヒドゥン・メッセージであるか否かを意識しながら聞き手の文脈とのすりあわせが少しでもできるようになると良いと思うところです。そのためには,常日頃から聞き手の文脈にアンテナを張っておくことが折り合いにつながる肝要な点です。褒め方の難しさです。自戒です。