信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

わからんかったらその人の責任にするしかない

 ある学会誌に,学生の意識調査の結果として,「わからんかったらその人の責任にするしかない」というプロトコルが掲載されていました。それだけを取り上げて議論することは慎重にしなければなりませんが,教育学系の大学に学ぶ一般の学生の意識の一端として,このような発話を残す文化はいつ形成されるものでしょうか。小学校入学の時からすでにこのような文化が形成されているのでしょうか。悲しくなります。
 いつどのように関して明らかなことは分かりませんが,間違いなく言えることは,義務教育後の集団内においてコンテンツ・ベースの社会的文脈の下で,一つ一つの社会的経験の積み重ねの中で形成されていった文化であることです。
 現代の教育学においては,初めての事物・現象に対して分からなくなる現象はごく当たり前に現れることが知られています。それは様々な学問的な背景の下で,多様な理解が成されることが次々に明らかにされてきています。それらへの対応は一人の人間で賄うことが極めて難しいことも知られるようになってきています。
 分からなくなる現象が現れた場合には,そこから脱却すべくもがき奮闘します。もがき奮闘する努力を認めてあげられる文脈が用意されているかどうかによっても,その分からなくなる現象の解決に至るかどうかが影響を受けます。もがき苦しんでも解決に至らない場合もあるでしょうが,それは分からなくなった本人の責任とその周りにいる人たちの責任とのバランスによって解決への道筋が付けられるように思います。
 分からなくなったらいつでもどのようなことでも誰にでも助けを求められる文脈を用意してあげる環境構成と,分からなくなったらいつでもどのようなことでも誰をも助けてあげられる文脈を用意してあげる環境構成が必要です。わからんかったらその人の責任にする前に,その集団の文化を変えてあげる努力をし続けたいものです。