信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

全員が目標達成して当たり前

 昨日の続きです。分からないまま授業が終わってしまっている子どもたちを見ると,この授業はおかしいでしょ,と思います。分からなくて終わってしまっている子どもたちを授業者はどうするんだろう,と。おそらく,何も手立てが講じられないまま,終わってしまうのでしょう。悲しくなります。私の知らないところで,配慮なされて救われているのかもしれません。それを切に願います。
 見方を変えると,分からないことが困っていることと思わない文脈を作りだしていること自体がおかしいことです。分からないことが自分にとって困っていることであるという認識や文化を創ることが,その意味では大切です。それも,毎日の毎単位時間の教科の授業の中で,です。自分の周りに,分からなくて困っている子どもたちがいたとしてら,あの子が困っていると思わなくなりますから。そうなると,なんとかしてあげなければ,という意識も芽生えません。それこそ,困ったものです。それはおかしいことです。
 分からなくなっても,授業者の意図する授業が円滑に展開することを妨げることを避けることの方が大切であるという文化があるとするならば,それはおかしいです。そんなことを主張すること自体がおかしなことかもしれませんが,分からなくなってしまう子どもたちにとっては,そのときが大切なのにそこで声を出せない,助けてもらえないことは困ったことなのです。
 まず,授業の最中に,自分が分からなくなったらそのときにその場で声を出して助けを求めていいんだよ,という文化が醸成されることが必要です。それは当たり前のことです。そして,授業の最中に,自分の周りのだれかが分からなくなって困って声を上げたら,助けてあげていいんだよという文化が醸成されることが必要です。それは当たり前のことです。分からないことが出てきた子どもたちにとっては,1分や2分でその分からなさが即時的に解決できることなどまずあり得ないのです。そこで分からなくなったことを放置しておくと次から次へと分からないことの連鎖が起きて,ますます分からなくなって言ってしまいます。それは避けなければなりません。
 分からないということは大変なことなのですから,それをまず解決しなければならないという文化が当たり前なのです。自分の分からないことを解決する,周りの友だちの分からないことを解決する,それが当たり前。授業の最後には,集団構成員の全員の分からないことが解決に至って,全員が目標達成できていて当たり前なのです。その当たり前の文化を一緒に創っていきましょう。