信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

学び合いと『学び合い』

 初めて学び合いに取り組もうとしている皆さんにとって,「学び合いってなんだろう」という思いがあるでしょう。「どうやればいいんだろう」という誰かに聞きたいと思うのでしょう。「学び合いと『学び合い』ってどこが違うんだろう」と思うでしょう。先日お伺いした学校では,学び合いと聞いて,「子どもたちを4人グループにして男女をクロスに座らせて何か話し合わせればいいのだろうか」という疑問を持ったといいます。それでも,見かけ上は学び合っているように見せることはできるでしょうし,「学び合いに取り組みなさい」と指導する指導主事を学習形態上からは満足させることはできるでしょう。教室の隅で,あるいは後ろから授業者の働きかけの概観を参観したり,前から教室全体の展開を観察したりしているのだけでは,本当に子どもたちが教えたり教えられたりしているのかどうかは把握できません。子どもに寄り添って子どもたちの会話している生の声を50分間,ないしは45分間ずっと聞いてみてください。そこから見えてくるものがあります。
 「グループになりなさい(グループになりましょうと指示される場合もありますが,同じことです)」と授業者に言われるので,子どもたちはグループになります。「男の子と女の子がクロスして座りなさい」と授業者に言われるから(もちろん,男女仲良く授業を受けることが大切だという納得のいく理由付けはするでしょう),子どもたちは授業者の指示通りに座ります。授業者の1回の指示でグループにならず,クロスして座らなければ,授業者に注意を受け,それでもなお従わない場合には「反抗的な子」,さらに繰り返されると「反社会的」として処理されます。そうなると保護者が呼ばれますし,中学校の場合には高校進学に影響があるのではないかということは子どもたちはよく知っています。だから,子どもたちは授業者の指示に従います。自戒を込めて。子どもたちは,何をしたら授業者に怒られるかよく分かっています。だから,授業者の顔色をうかがっています。
 ところで,なぜ,グループになるのでしょうか?話し合うためですか?それでは,グループになるのは話し合うことが目的なのですか?一般的に,「グループになりなさい」と指示を出す授業者は,話し合わせることを目的として指示を出します。話し合う目的を達成するためには,グループにさせるのが最善の方法であるという思いが強いからです。
 授業者は次に「話し合いなさい(話し合いましょう)」と指示を出しますが,ただ単に「話し合いなさい」と言っても子どもたちは何も話し合えないという旧態然とした固定観念にとらわれていますから,話し合いのルールを強要することになります。典型的なものは「司会を決めて始めなさい」でしょう。「子どもたちはルールを指導しなければ話し合うことはできない無能な存在である」という客観主義学習論の考え方が,そこにはあります。そうすると,子どもたちはじゃんけんをして司会者を決めるか,特定の子に押しつけるかして司会者を決めてようやく話し合いの形態が整います。司会者は,どのようにしたらよいか分からないので,困ってしまいます。すると,授業者は,教師がやり方を示してやらないと司会ができないという固定観念から,司会のやり方をパウチして配ってそれに従って進めさせます。一般的には,司会になった子がグループの中の子を順番に指名して考えなり意見なりを聞いていって,話し合いを終える場合が多いです。ここにも客観主義学習論の考え方が見え隠れしています。それは極論だと言われるかもしれませんが,実際の授業では多く見られるパターンです。その方が授業者の指示が通りますし,どこでだれが何をしているかが一目で分かるからです。つまり,授業者が授業管理,児童・生徒管理をする上でまさに申し分のない方法だからです。授業管理や生徒管理が上手な先生が指導力のある先生だと思われる風潮があることは悲しいことですね。
 しかし,考えてみてください。このような方法で,本当に子どもたちは分からないことを出し合って課題解決を果たしているのでしょうか?答えはノーです。もちろん,場合によっては課題解決に至る場合もあるでしょうが,極めて稀です。それは往々にして力関係で上回っている子の一方的な言い分によるものの場合が多いです。そんなグループで話し合っている子どもたちの様子を隣に座って黙って見てみてください。話し声を黙って聞いてみてください。早く止めたくて仕方がない様子が伝わってくると思います。じっと我慢して授業が終わるのを耐えている様子が伝わってくると思います。「ほかにありませんか?」「ありません」「終わりにしていいですか?」「はい」という声が聞こえてくるかもしれません。これが,学び合いです。授業者から「司会の人はちゃんと進めなさい」「人の発言は最後まできちんと聞きなさい」「班の中で全員が発表しなさい」「話し合いにちゃんと参加しなさい」「隣のクラスの迷惑にならないように,静かに話し合いなさい」「席を立ってはいけません」「隣の班をのぞいてはいけません」などのような「○○をしなさい」「○○してはいけません」という指示で行動を起こします。授業者に怒られないように。しかし,授業者からの指示が出なければ何もしませんし,できません。ですから,指示されたことはやりますが,指示のないことは何をしたらよいか分かりません。
 ところで,人間は生まれながらにして,誰に教えられたわけでもなく,課題を解決しようとする力を持っています。生まれて間もない赤ちゃんは,自らの意思を泣くことによって周囲に伝えようとします。立派な課題解決に向けた意思表明ではありませんか。母親は赤ちゃんに向かって「何か,私にしてほしいことがあったら,声を出して泣きなさい」と語りかけているでしょうか?赤ちゃんは,母親のその指示通りに泣いているのでしょうか?答えはノーです。私たちは生まれたときから,課題を解決しようとする素晴らしい力を持っているのです。それが育つ芽をつみ取っているのは私たち教師ではないのでしょうか?
 私たちが未知なる課題に遭遇したときには,まず第一に,どうやって解決したらよいか困ってしまいますね。全く予想していなかったものであったり,過去の経験を生かすことのできない初めての経験であればなおさらのことでしょう。そこで,そんなときは,「困ってしまった。」ということを周りの人たちに主張します。先に事例を挙げさせていただいた赤ちゃんの場合は典型的なのかもしれません。困ってしまった場合には,自分ではどうしようもないために,大きな声で泣いてなんとかしてほしいということを主張します。私たちは,生まれながらにして,誰に教えられたわけでもなく,困ったときには周りの人たちに対して,自分は困っているんだぞということを伝えようとするコミュニケーションの力を備えて生まれてくるのです。
 その後,自立のプロセスを経る中で様々な学習をしながら,周りから要求される課題の自力解決の方策を会得するとともに,自分の困っているところがどこであるのかを周りに伝える手段を獲得していくこととなります。自分の困っているところがどこであるかを周りに伝える手段を獲得すると,自分はどのようなことで困っているのか,周りから教えてもらおうとして行動を起こします。自分の困っているところが周りから教えてもらって解決できれば,それで課題解決にいたって良しとしますが,解決できない場合,解決できないところを解決するためにどのようにしたら良いかを考えて,それの解決に向けてさらに行動を起こします。それが手段目標分析と呼ばれる手法です。
 この手段目標分析と呼ばれる手法を使って,与えられた課題を解決しようとする行為は,何も日常生活で見られるものだけではありません。もちろん,学校教育の授業の場でも現れます。子どもたちは,授業者の与えるその日の授業の課題を解決しようとして,最も効率的にかつ最も適切に解決に至る方法を選ぼうとします。そのためには,男女2人ずつの4人グループが,自分にとって最も効率的で最も適切であると判断すれば,それを選ぶでしょう。ただ,授業者が「あなたには,男女2人ずつの4人グループが最も効率的で適切だから絶対にそうしなさい」と子どもたちに押しつけるものではありません。その方法が,その子にとって最も効率的で最も適切な方法であるかどうかは,その子が判断すべきものです。授業者が子どもたちに課題解決の方法を押しつけることの,最も大きな弊害は,押しつけることによって子どもたちにとって「男女2人ずつの4人グループになること」という方法が目的にすり替わってしまうことです。
 子どもたちが最も効率的で最も適切な方法を選んだとして,課題解決に向けて行動を起こしたとします。もし,課題解決に向かうプロセスで,分からないこと,困ったことがでてきたら,子どもたちはどうするでしょう?皆さんなら,そんなときに子どもたちはどうすると思いますか?私なら,きっと子どもたちはまず自力解決を試みるでしょうが,それがかなわない場合,自分が困っていること,分からなくなったことを周りに情報発信して,誰かから教えてもらおうとすると思います。もし,自分が学ぶ立場なら,間違いなくそうします。それが「分かんないよ」とか「えーっ,困っちゃった。誰か教えてよ。」という発話になって現れるのではないでしょうか?
 そんなとき,周りの誰かが教えてくれて,困っていることや分からないことが解決できれば申し分ありません。しかし,解決できなかったときがあったとしたら,その理由として2つの可能性が考えられます。一つは,教えてくれた人の教え方と自分の分かり方がぴったり一致していなかったときです。そのときには,残念ながら,折角教えてもらったのですが教えてもらった方としてはよく分からない教え方となってしまっていて,分からないことや困ったことは解決できません。実は,人間は,ある分野や内容を勉強してとても詳しく知るようになると,そのことを誰かに教えようとした場合に分かりやすく教えられなくなってしまう現象が起きてしまうことが明らかにされています。これを自動化と呼びます。この現象が起きてしまうために,自分では上手に説明して教えているつもりでも,相手はあまりよく分かっていなくてちんぷんかんぷんであるということが起きてしまうのです。したがって,教えられた方にとっては「おまえの教え方はへただ。」となってしまいますし,教えた方にとっては「折角,一生懸命教えてやったのに,なんで分からないんだ。」となってしまう悲劇が生まれます。そこで,自分にとって最も上手く教えてくれる人を探して,教えてもらおうとする行動を起こすことになります。
 もう一つは,先ほどお話ししましたように,手段目標分析のプロセスで,新たに分からないことや困ったことがでてきたときです。今度は,その新たに現れた分からないことや困ったことを解決するために,改めてもう一度新しい行動を起こす必要が生じます。そこで,同じ人にもう一度,新たに分からなくなったことや困ったことを教えてもらいます。その人に教えてもらって解決に至れば良いですが,解決に至らない場合は,また別の人を探すこととなります。そのときにも,先ほどお話しした自動化を起こしてしまわないで教えてくれる人が早く見つかるといいですね。
 この一連の課題快活に向かう行動がわずか45分なり50分の1単位時間の中に現れています。それも,1クラスに40人いれば40通りの現れ方をします。普通の授業者は,そのような課題解決の多様な現れ方に対応できませんし,どうして良いか分からずパニックになりますので,そのような現象が現れないような一斉指導を試みて満足するのです。このような子どもたちの課題解決に向かうために現れる発話や行動をじっと待ってじゃましない授業があります。それが『学び合い』です。子どもたちが課題解決に向かおうとする発話や行動をじゃましないことが大切で,じゃましてしまうと『学び合い』は起きません。
 ここまでお話ししてきましたように,従来から一般名詞として使われている学び合いというのは,授業者がグループを作ったり話し合いのルールを作ったりして,子どもたちに教えたり教えられたりさせる学習形態を示すことと受け止められていることが多いようです。ですから,学び合いと言った場合には,グループにさせて何か話し合いをさせれば良いのではないかと受け止められています。それに対して,『学び合い』は,子どもたちが課題解決に至る方法の一つとして周りとのコミュニケーションを図りながら自発的に教えたり教えられたりする学習を示している点が特徴です。(2008年1月15日「信濃の国からこんにちは」から)