信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

受ける側は忘れない

 する方は覚えていないものですが,された方は良く覚えています。それは良い意味でも悪い意味でもです。良い意味で言わせてもらえれば,受けた恩義はした側は忘れているでしょうが,受けた側は覚えているものです。

 あのときの恩義は忘れない,だからこそその恩義に応えるように恩返しをするのです。本当に困っているときに受けた恩義であればあるほど,受けた側としてはそのときの記憶は残ります。
 学校教育における教科の授業で調査したことがあります。どんな調査なのかは,2016年10月31日のブログに書かれていますので,再掲します。長いですがおつきあいください。


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[『学び合い』教育学]口先だけか本気か
 『学び合い』だという教師が口先だけで語っているのか本気で語っているのかなどすぐに見抜く方法があります。アンケートによって子どもたちの自己評価を引き出す手法です。『学び合い』授業後に子どもたちにアンケートを取ることがあります。だれから教えてもらいましたか,誰に教えてあげましたかを問う簡単なアンケート調査です。子どもたちが教えてもらったと思う友達の名前のところに○印を付けます。一方,教えてあげたと判断している友達のところにも○印を付けます。その上で,最もよく教えてくれたと判断した友達のところには◎印を付けます。実はこれがゲートキーパーになるのです。最もよく教えてあげたと考えている友達のところに◎印を付けます。
 その結果を一覧表にします。横軸に教え手,つまり誰に教えてあげたのかを記します。縦軸に学び手,つまり誰から教えてもらったのかを記します。文章表現だけではなかなか難しいですが,このようにして一覧表にしてみると,誰から教えてもらったか誰に教えてあげたかが一目瞭然です。それも最もよく教えてあげた人と最もよく教えてくれた人も分かるので色分けしてプロットすると色とりどりの模様が見えてきます。同じ集団であったとしても,教科によって異なる色図になりますし,同じ教科であっても異なる内容であれば異なる色図ができます( 三崎隆・西川純・川上早苗・桐生徹・水落芳明:『学び合い』の考え方による授業を評価する手法の有効性に関する研究,臨床教科教育学会誌,13(1),101-109,2013)。
 このときに,たとえ『学び合い』だと言われる授業であったとしても,表の中のプロットに色がちりばめられていないような場合には本物の『学び合い』といえるものではありません。本物ならば表の中のプロットはバランスのよい分布になりますしその上に最もよく教えてあげた人と最もよく教えてくれた人のプロットもバランスよく配置されます。特定の場所に固まっているような分布はグループ学習としか言えません。子どもたちは正直ですから,いくら教師が『学び合い』だと言ったとしてもその考え方が享受されていないならば,この表のプロット分布は広がりません。プロット分布が広がらないということは,関わっているようですが実は教えてあげたという認識がなく教えてもらったという認識がないことですから,それは本物の『学び合い』ではないのです。子どもたちは,教師が口先だけで語っているのか本気で語っているのかなどすぐに見抜きます。
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 つまり,教えてもらった人に○印を付けてもらう方法を採用しています。その結果がどうなったかと言うと,2017年5月23日に書いたブログに載っていますので,再掲します。また,長くなりますがおつきあいください。


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[ゼミ・研究室]教えることと学ぶことの乖離
 教師は授業で教えています。教えているはずだと言った方が適切かもしれません。自分の経験に依れば,文書を配布し,説明もしたにもかかわらず,「そんなこと聞いてません」と言われることもしばしばあります。そのたびに,教えたはずなのにと思ってしまいます。「なぜ理科は難しいと言われるのか(西川純著)」の中に,2時間かけて炎色反応の生徒実験をやったくだりが出てきます。クラスの大多数が「そんな実験やっていない」と確信を持って答えていたそうです。教師が教えたと思っていることと子どもたちが教えてもらったと思っていることがずれている経験です。教えることと学ぶことの乖離です。
 昨日は全体ゼミでした。文章だらけの入門書の読み合わせの中に,次のような一文が出てきます。「実際の『学び合い』の考え方による授業を分析してみると,教えたと思っている子どもたちのうち,教えたと思っている相手が教えてもらったと実際にとらえている割合は約6割である。一方,教えてもらったと思っている子どもたちのうち,教えてくれた相手が実際に教えたととらえている割合も約6割である」(川上早苗・三崎隆:中学校理科の『学び合い』授業での「学び手」と「教え手」に関する研究,第7回臨床教科教育学セミナー2008発表要項集,1-2,2008,臨床教科教育学会.)
 子どもたち同士の間でさえも,教えたと思っていることと教えてもらったと思っていることがずれている証拠です。これは経験ではなく,実証データです。教えたはずなのに,相手は教えてもらっていないと言う,教えていないのに相手は教えてもらったと言う,現象が相当数現れます。教え合いという表現がよく使われることがあります。子どもたち同士が教え合ったら相手は分かるようになるのかというと,そんなに単純ではないことが分かります。教えてあげても教えてもらったと思っていない子どもたちが半数近くいるのですから。学ぶということはどういうことなのかが見えてきます。
 私がそんなことを考えながら,レジュメを説明するB3の話に耳を傾けていたら,話題はブレインの方へ行きました。ブレインは教師かという疑問です。ブレインは専門家,エンド・ユーザーは初心者です。教室の中にいるブレインは教師だけか?という現職の疑問から提起された議論です。ゼミ生に考えさせるにはもってこいのヒット・テーマとなりました。実に充実した思考の時間となったことが嬉しいことです。『学び合い』をやってる現職のいる全体ゼミは刺激的で良いものです。教師も,教師になってから一度はエンド・ユーザーになった方が良いということが再確認できた一時です。来週5月29日(月)の全体ゼミはB4が教育実習のため休みです。次回は6月5日(月),B4がいませんがB3が仕切ってやります。乞うご期待。
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 つまり,どうなったかというと,「あの子から教えてもらった」と○印を付ける子がいるのですが,その相手の子は,その子の教えてあげたと言っていない子が半分いるのです。

 一方,「(僕は,私は)あの子に教えてあげた」として○印を付ける子がいるのですが,その相手の子は,その子から教えてもらったと言っていない子が半分いるのです。

 教師は,自分の授業でこどもたちに教えたと思っているでしょうが,その中で,先生から教えてもらったと意識していない子が半分は存在していることになります。子どもたちの学びはいつどこでどのようなときに起きるのかは,教師には分からないのです,

 自分の学びがいつどこでどのように起きるのかを知っているのは,自分だけです。それを意識できるのは,実は授業が終わった後のリフレクションのときであることはほとんど知られていません。

 しかし,冒頭に書いたように,学んだ側はそのことをよく分かっていますし,いつまでも覚えているものですが,教えた側はすっかり忘れてしまっていることがほとんどなのです。

 だからこそ,子どもたちの学びがいつどこでどのように起きるのかをコントロールするよりも,最終的な結果として育てたい資質・能力を授業冒頭にしっかり示して子どもたち自身に任せる方が現実的には有意義であり,そのことは学術的にも実証されているのです。

 それが『学び合い』の考え方です。
 最後までお読みくださり,ありがとうございました。