人生は人の答えを写して生きていくことができるほど甘くないことはよく分かります。それでも,答えを写してでも一刻でも答えを出したいと思うのは世の常かも知れません。
なぜ答えを写したくなるのでしょうか。その理由はいろいろあるのでしょうが,一つには我々が答えを求めるからでしょう。我々という言い方よりも,授業が一つの答えを求める流れを創り出しているからであると言い換えた方が良いのかも知れません。
日本の学校教育の多くの授業には,授業の最後に授業者の期待する答えが用意されていると言っても過言ではありません。その答えに向かって子どもたちは学びを推し進めていきますから,早く答えに辿り着きたいのです。子どもたちだけでなく,問題解決に向かう我々も,です。だから,人のでもいいから答えを写すのです。答えに辿り着きさえすれば,先生に怒られること指導されることはそのときはないのですから。
『学び合い』の考え方では,答えを写しても仕方がないことを語ります。であるだけに,子どもたち自身が答えを写しても意味ないよと語り合います。初期の段階では,答えを1部黒板に掲示します。いつでもだれでもどんなときでも何回でも見に来ていいのです。答えを写しても意味がないことを知っているので,たとえ答えを見たとしてもそれを丸写しにすることはありません。
それが『学び合い』の考え方です。