信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

トライしたらかなえたい

 トライ・アンド・エラーを起こすのは日常生活の中では当たり前のことです。学校現場においても学びの場はごく自然にトライ・アンド・エラーを起こしていきます。その繰り返しによって,折り合いが付けられてトライ・アンド・エラーの頻度が下がっていくのです。しかしながら,トライしたら絶対にエラーを起こしたくないこともあります。それが1年に1回の機会とか,数年に1回の機会しか巡ってこないような場合,ときには一生に一度の巡り会いのこともあるでしょう。そんなときは,絶対にトライしたらサクセスに至らせたいと誰しも思います。経験が尊いと思えるようになるまでには相当の年月が必要です。1年に一度の機会に挑戦している共通テストに臨む受験生のみなさまのサクセスを心より願うものです。

 

理科は難しい

 理科が難しいと言われる所以は,理科に単位があるからであることはよく知られています。ですから,算数・数学は無難に問題解決に至ることができたとしても一般的に理科になるととたんに問題解決に至らなくなる例が数多く見受けられます。私もそうでしたし,なかなかやっかいです。
 理科の場合,たとえば,長さをl(エル)で表しますが,このl(エル)の中には単位が包含されています。メートルが一般的です。ですから,l(エル)と書いたら,いちいち単位を書く必要はありません。言い方を変えると単位を書くと,理解していないんだなあと思われてしまいます。
 一方,算数・数学の場合は長さをl(エル)と表しますが,このl(エル)の中には単位は包含されていません。ですから,l(エル)と書いたとしても,そこに必ず単位を添えなければなりません。言い方を変えると単位を書かなければ,理解していないんだなあと思われてしまいます。”私は理科のつもりで書かなかったんです”と言い訳をしたとしても,ここは理科ではなく算数・数学なんだよと返されてしまい,文脈の違いによって正解も正解でなくなるからやっかいです。
 文脈に依存して問題解決を図る必要があるわけです。だからこそ,理科が難しいと言われます。

 

価値観を押しつけるときはどんなとき?

 昨日に続きます。価値観を押しつけようとするときはどんなときでしょうか?考えてみましょう。
 おそらく,自分の方が上だという意識が,無意識のうちに働くときではないでしょうか?”上”という意識は,知識,知力,技能等の認知的能力,腕力,体力,走力,持久力,瞬発力等の運動能力,私も圧倒される方ですが,身長や体重等の身体的特徴,グローバルな語学力,経験それも多種多様な星の数ほどの経験や体験の数々,等々があげられるのではないでしょうか。
 相手よりも自分の方が優れているとか,負けるわけがない,とか優位性を存分に感じることができるときに,自分の価値観を相手に押しつけようとするのではないかと思うところです。相手が自分よりも弱い立場にいると感じるとき,相手には絶対に負けることはないと実感してしまうとき,は要注意と言えます。もう一人の自分が警鐘を鳴らしてくれます。
 実るほど頭を垂れる稲穂かな,という言葉が思い出されます。そんなときこそ,相手の言い分や考え,意見を,表面的にではなく,その表出に至った背景となる証拠の経験や知識等々を聞き出す努力を惜しまないように心がけることが何より肝要であると最近は特に思います。

 

相手の考えが自分と違ったとき

 どのような話題でも良いのですが,相手の考えや意見が自分と違っていたら,あなたならどのような対応を取るでしょうか?
 先行研究では次のようなケースを示してくれています。
無関心ケース:相手の言い分を無視するか,無関心に自分の関心のあるテーマだけを勝手に語る。会話にならない。
安易合意ケース:相手の言い分の根拠も聞かず,安易に合意して相手の言い分を受け入れる。
強制ケース:相手の言い分が何であれ,自分の価値観を相手に理解してもらおうと必死になる。
そして,経験交換ケースです。相手の言い分の根拠を聞いて自分の考えについて根拠を説明しながら折り合いを付けながらより良い方向を模索しながら語り合う。
 私なら,まず,自分の考えの優越性をこんこんと訴えることでしょう。この歳になっても,いまだに,自分の価値観を優先的に相手に理解してもらおうと必死になる自分が存在することに気がついてハッとします。いわゆる,価値観の押しつけです。自然に声高になり,諫められます。一人になって冷静にリフレクションすると,恥ずかしくて真っ赤になってしまいます。
 相手の考えには,その背景となる知識や経験があるはずです。それも豊富な。自分の知らない。それを根拠にして語ってくれているのですから,それに基づいて考え直してみると,相手の考えにも必ず一理あるはずなのです。感情的にならずに,その考えの良いところはどこかを探し出す試みをする努力を厭わないことが肝要です。それが折り合いをつける秘訣なのですから。
 とは言っても,一朝一夕にはなかなかできません。自戒です。

 

比較する力

 比較する力は小学校第3学年の理科で身につけます。物体と物体を比較することを通して比較する力を身につけるとともに,前と後を比べながら比較する力を身につけます。2種類の比較がしっかりできるように身につけることになります。ただ一概に,比較するとは言っても,物体と物体を比べようとしても両方の物体の条件が違っていたら比べようがありません。そのため,小学校第4学年ではどんな条件があるのかなという視点を身につけ,小学校第5学年では数ある条件をそろえる作業が円滑にできるような力を身につけます。小学校の理科は,何気なく学んできたと思いますが,実はなかなかよくできています。大人になったら,それらをうまく駆使しながら私たちは様々なものを比べているのです。

 

価値観を共有する時代

 かつて学校教育の現場では,教師は自分のあるいは学校の社会の価値観を子どもたちに押しつけてきたところがあるように思います。型にはめるという表現もそれに近いのではないでしょうか。今でも一部の学校教育においては,そうかもしれません。
 今は価値観を子どもと共有する時代です。教師の価値観と子どもの価値観は違っていて当たり前です。教師と子どもたちというよりも,一人一人の価値観が違っていて当たり前なのです。みんな違っていて当たり前なのですから。
 学校現場において,子どもたちの持つ価値観に寄り添いながら,彼らの価値観を共有できるような子どもたちとの関わり方を探していくことができないものでしょうか。それこそ,子どもたちの前に立つ教師,その人の価値観に依ることなのかもしれませんが。
 「先生には決められないなあ」「みんなはどう思う?」と尋ねてみながら,彼らの持っている価値観を引き出して,それらと折り合いを付けながら育てていくことが大切なのではないでしょうか。

 

不安や悩みは

 人間誰しも不安や悩みはつきものです。不安になり悩みを抱えます。不安になっていたたまれなくなったら,それらの不安を一つ一つ書き出してみると良いと心理学者はよく言います。外化する作業です。不安や悩みを誰かに話してみることも同じ外化の過程を経るので,それらの不安や悩みを解消することはできなくても少しだけでも和らげることはできます。その意味においては,話を聞いてくれる人,そう黙って聞いてくれるだけでも良いのです,そのような人がいる環境があると幸せです。ただ,うなずいてくれるだけで良いのです。ただ,じっとこちらを見てくれているだけでも良いのです。うなういてくれるだけでも。
 書き出す作業はそれに代替できて,書き出したものをモニターを通して見るがごとく,冷静にもう一度見直すことができるからではないかと独りごちています。「今,不安なんだ」「不安でいっぱいだ」などは,自分の弱みとも言える部分をさらけ出すことなので,なかなか口に出せるものではないのですが,それでも勇気を持って言ってみると少し落ち着きます。不安であることをいつでもどこでも誰にでも,言っていいんだよ。