信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

教職大学院もオンラインでスタート

 昨日から教職大学院の授業がオンラインで本格的に始まりました。一部,リフレクションはすでにスタートしていますが,チーム演習と称しているチームでの合同の演習講義が本格的に一斉スタートしたのはおよそ3か月ぶりとなります。

 M2のみなさんは残すところ,あと4か月あまりとなりました。1年半かけて取り組んできた教育研究もラスト・スパートの様を呈しています。朝晩の冷え込みが一段と厳しくなってきて,ここ長野も最高気温が15度となっていますので体調を整えて元気に乗り切ってほしいと願うばかりです。

 再開された昨晩の演習では,ストマスのみなさんの中間発表会を終えてから後期へのこれからの研究の方向性が報告され,みんなでわいわいがやがや議論したところです。現職とストマスが共に1つの方向に向けてそれぞれの経験を基に語り合うことができるところが当教職大学院の良さの1つです。

 昨日のリフレクションでは,自分の教員としての教員へのモチベーションがより一層高まっているが,その要因がこのリフレクションつまり本学教職大学院のチーム演習によるものであるという自己更新がなされているという語りが自然と語られる点も良さの一つです。ありがたいことです。

教えることは学ぶこと

 オンラインで授業をしていると,IT機器に不慣れなだけに受講生のみなさんに助けてもらうことが多々あります。受講生は助けているつもりはないのでしょうが,こちらにしてみると困ったそのときに絶妙なタイミングで手をさしのべてくれるので本当に助かります。

 そのことに鑑みると,教えているつもりでも教えてもらっていることがあることが頻繁にあることを思い起こします。まるで,理科で見られる現象の酸化還元のようで不思議です。物質が酸化しているのですが,知らず知らずのうちに還元作用も起きているのです。

 それを教授・学習に当てはめて考えると,教えているのですが知らず知らずのうちに学びも起きているのです。その意味では,教えると言うことは学ぶということになります。教えているのですから相手は学ぶのは普通なのでしょうが,それに加えて,知らず知らずのうちに教えている本人自身が学んでいることになります。教えている本人は自分が教えながら実は学んでいることということなどはこれっぽっちも意識していないでしょうが。

 学ぶ立場に立って,言い方をかえてみれば,学ぶには教えてみれば良いと言うことになります。学びを深化させるためには教える行為を積極的に行うことが肝要であるということです。教える仕事に携わっていることは,実は自分自身が学ばせてもらっているということです。そのことに感謝です。

オンライン授業スタート

 後期の授業が始まりました。オンラインです。異なるIDでサインインしてとまどったりマイクをオフにしたまましばらく話したり,そのときはよくしたもので受講生が「先生,マイクが入っていません」と教えてくれました。若干の戸惑いと不具合はありましたが,なんとか滑り出したという感じです。前期に続いての同期型オンライン授業なので,私も受講生も少し慣れてきているようで接続も名前表示もブレイクアウト・セッションもスプレッド・シートを使ったディスカッション記録と全体共有も,途中で途切れることなく進みました。出欠確認もOKです。受講生に助けられているところがあって感謝です。2月まですべて同期型オンライン授業が続きます。

卒論への道のりが始まった

 卒論への長い道のりが始まりました。4つのハードルがあります。1つは卒論のテーマを決めること,1つは学校現場で実際に調査してくること,1つは録画・録音してきたデータを実際の様子が分かるように文字に表すこと,1つはしゃべっている子どもたちの相手の子を特定すること,です。

 長い道のりの入口に入ろうとしてその準備を始めようとしているところです。そのときそのときを一生懸命に取り組んでいるとやがてはゴールに辿り着くのですから,地道に一歩ずつ歩みを進めていくことが必要です。ときには回り道をするかもしれませんが,終わってみればそれが案外と近道であるということもあります。

 私たちの研究室では,卒論のテーマはゼミ生のみなさんが自分で決めます。共同研究はできませんから,自分の卒論のテーマは自分で決めるしかありません。それも,理科の『学び合い』であって,オリジナルでなければなりません。同級生と同じ卒論のテーマにすることはできません。先輩たちと同じテーマもダメです。先輩たち以外であっても,すでに報告された公表されているテーマもダメです。それだけに,悩むところです。

 先輩たちが誰でも通って来た道です。彼らと一緒に歩むことができればそれほど嬉しいことはありません。ともに汗します。

オンライン入試

 オンラインによる本学教職大学院の入試を無事に終えました。終日,試験員も受験生も接続不良を起こすことなく,最後まで順調に予定をこなすことができてありがたく思います。オンラインでも,画面を通して受験生の表情がとてもよく分かり,うなずいたり微笑んだりしている様子が伝わってきます。ときにはメモを取って万全を期そうとしている姿もありました。ご配慮,ご尽力いただいた皆様に心から感謝しています。みなさんの進路が実現しますことを心から願います。

ほうれんそう

 学校現場では,ほうれんそうという言葉がよく使われ,大事にされます。ほうれんそうの”ほう”は報告の”ほう”です。ほうれんそうの”れん”は連絡の”れんです。ほうれんそうの”そう”は相談の”そう”です。

 昔,一人で全てを行っていた時代にはそれほどでもなかったのでしょうが,私が初めて学校現場に立った41年前でさえ,言われていたのですが,そのときから学校はすでにチーム学校になっていたものと思われます。

 チーム学校の時代になると,ほうれんそうが欠かせません。相互に連携し協力しながら日々の教育活動の充実発展に取り組んでいきますし,校内の諸問題も自分一人ではなくチームを組んで管理職の指導を受けながら解決に向かって全職員で取り組んでいきます。ほうれんそうが徹底されないと,チームがぎくしゃくしていきますしほころびが生じ,各方面からクレームをもらうことにつながります。対応が後手後手になってしまうので,通常以上の労力を費やすことになってしまいます。

 このくらい報告しなくても,こんなことを連絡しなくても,そんな当たり前のことを相談しなくても大丈夫だろう,という気持ちがズレを生んでいきます。そこには慣れもあるのでしょう。いつの時代もほうれんそうが大切であることに変わりはありません。自戒を込めて。

自分の文脈をまわりの人たちに

 自分の文化の下で培われた文脈の中で過ごしている限り,居心地は良いものです。周りは小さいときから培ってきたなじみの深い自分の文脈ですから。食文化も衣文化も言語文化も,そして思考文化も表現文化も行動文化も,日常生活の中で培われてきた文脈です。

 ともすると,あまりにも居心地が良いので,その自分の文化ないしは文化を培ってきた文脈を異なる文化や文脈を持っているまわりの人たちに薦めたり自分の文化や文脈の中へ誘ったりすることがあります。いわゆる文化,文脈の押しつけです。

 そうなると,お互いにどこかぎくしゃくしてきます。周りの人たちが折り合いを付ける術を持っていてくれれば良いですが,その度合いが高じてくると,両者の間にずれが生じて,ともするとその文脈での接触を避けようとされるようになることがあります。

 薦めたり誘ったりしている側にはそのことがよく分かりません。自分の文脈で培ってきた文化が自分にとって心地よいのでその心地よさを周りの人たちと共有したいと思うから,尚更のことです。あまりにも長い間,居心地の良い自分の文脈で過ごすことが多かったのかもしれません。

 できることなら,自分の文脈を一度リセットするなりまわりの文脈との共通性を見出すなりしてみることができるとより良い方向を見出すことができるものと思われます。小さいときから,周りにはいろいろな文脈を持っている人たちがいてそれが当たり前であることを学ぶ機会を数多く持っていくことが肝要なのではないでしょうか。