信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

自分の文脈と周りの人の文脈

 私たちがものごとを理解するときには,自分の文脈で理解します。ものごとを語るときも自分の文脈で語ります。

 自分が生まれてからこの方育ってきて身に付けた知識,技能そして自分の居心地の良さを醸し出してくれる自らの周りの文化の下で,ものごとを見たり聞いたり語ったり行動したりします。いわゆるバイアスがかかった状況で毎日を過ごしているからです。

 100人いれば,その文脈は100通り存在します。

 しかしながら,自分の文脈で理解し語り行動するときに,周りの人達の文脈で理解し語り行動することはありません。ですから,自分の文脈の中であれば理解はできますが,異なる文脈ではなかなか理解できません。

 先生の文脈で語られても,それは先生の文脈であって自分の文脈ではないので理解は難しいです。先生が自分の文脈の中に入ってくれたら理解もできるでしょうが,日常的つまり毎日の教科の授業でそのようなことはまずあり得ないことですから,1回聞いただけではなかなか難しいです。

 自分が先生の文脈に近づかない限り,無理です。換言すれば,先生の文脈に近い子どもたちは先生の文脈ですから,理解は容易です。

 先生の文脈で授業が成されれば,理解できる子は先生の文脈に近い子だけです。

今月の学修者主体の学びの場を創る会

 夕べは,今月の学修者主体の学びの場を創る会でした。

 毎月最終水曜日に開催されるこの会ですが,今回は,あっという間の1ヶ月であったと感じるほど,この1ヶ月は様々なことが起こり対応に追われてきたように感じます。

 10名のみなさまと一緒に,T県のT先生の話題提供のあと,相手の関心に関心を寄せることをテーマにブレイクアウト・セッションです。久しぶりにオリヒメの話題になり,年間11万円ほどの予算でレンタルが可能であるという話が出ました。オリヒメの出たてのころはもっと高い価格であったものが,利用しやすい環境が整いつつあることを感じます。

 相手の関心に関心を寄せることは,相手の文脈に自分の文脈を近づけるあるいは入り込むことを意味します。言うは易く行うは難しで,幼少の頃から経験を積んでいかなければ,大人になってもなかなかできることではありません。大人になればできるようになる,は的を得ていないことが数多く存在するのです。我々が,社会的な文脈の中で生きていることを実感させられます。

分からないことがあったら質問していいですよ

 分からないことがあったら質問しても構いませんよ,と言われることはよくあることです。

 何も,『学び合い』の考え方でなくても,私たちが50年も前に受けたときの授業でもそれは言われたことです。授業の時に「何か分からないことがあったら手を挙げて質問してください」と言われます。手を挙げて質問してくださいと言われて,授業の最中に手を挙げて質問するかどうかは別にして,少なくとも,そのような環境は用意されていたことをかすかな思い出として覚えています。私は,一度も挙げたことはありませんが。

 「分からないことがあったら質問してもいいですよ」とはよく言われますが,「分からないことがあったらいつでも質問してもいいですよ」と言われることは,なかなかありません。先生がしゃべっている,まさにその最中に,先生の語りを遮ってまで手を挙げて,「先生,質問があります」と言うのは余程勇気が必要です。能力があり自信がない限り,できることではないように感じます。私は人生の中で一度もしたことはありません。

 同様になかなかあり得ないのは,「分からないことがあったらどんなことでも質問していいですよ」です。「どんなことでも」と言ってくれる先生はそうそういないものです。どんなことでもいいですよと言ってくれたとしても,先生が今,説明している内容に関して”どんなことでも”であって,その前提となるような前学年で履修する内容とか下校種で履修する内容を質問することははばかれます。言ってくれる先生の方も,まさか前学年や下校種で習ったことを質問してくるとは思いませんから,質問されたら「それは(前学年で下校種で)勉強したでしょ。ちゃんと復習しておきなさい」で終わってしまうかも知れません。ですから,「分からないことがあったら質問してもいいですよ」に,”いつでも”と”どんなことでも”は加わる余地はないのです。

 もっと加わる余地がない言葉があります。”何度でも”です。

 みなさんは,小学校,中学校,高等学校,大学時代を通して,「分からないことがあったら何度でも質問してもいいですよ」などと言われたことがありますか?私はありません。

 仮に,分からないことがでてきて,1回質問したとします。それでも分からないのでもう1回,つまり2回同じことを質問したとします。質問を受けた先生はおそらく,いやな顔をするでしょう。「1回説明したのになぜ分からないのか」という思いでしょう。それでも「じゃあ,もう1回説明するからよく聞いててね」と言って説明してくれるかも知れません。それでも分からなくて同じ質問を3回目にしたらどうでしょう。おそらく,答えてくれないのではないでしょうか。2回も同じことを説明したんだからもういいだろう,と。

 それが,『学び合い』の考え方ではない授業の一般的な現実です。「分からないことがあったら質問してもいいですよ」と言われることはありますが,「分からないことがあったらいつでもどんなことでも何度でも質問してもいいですよ」とは絶対に言われません。全国は広いので,絶対はないかもしれませんが,少なくとも,57年間,私は聞いたことがありません。

 なぜ,「分からないことがあったらいつでもどんなことでも何度でも質問してもいいですよ」と言わないのでしょうか。特に,私は分からない子にとって,”何度でも”がミソだと確信しています。同じ質問を何度でも繰り返ししてもかまわない環境が整っていることが,分からない子の分からなさを解決に導いてあげる最善とは言いませんが,最良の手立てであると考えています。

 分からない子にとっては,1回聞いて分かるかどうかは分からないのです。だって,初めてのことに立ち向かって目標を時間内に達成しなければならないミッションを与えられているのですから,1回聞いて分かるかどうかはやってみなければ分からないじゃないですか。初めてのことをやるんですから。

 ですから,授業の時に,「分からないことがあったらいつでもどんなことでも何度でも質問してもいいですよ」と言ってあげてほしいと願って止みません。すくなくとも,「分からないことがあったら何度でも質問してもいいですよ」です。

 『学び合い』の考え方では,「分からないことがあったらいつでもどんなことでも何度でも質問してもいいですよ」です。そこにもう一つ「本当によく分かるまで」が加わるのが,『学び合い』の考え方の特徴です。

 「分からないことがあったらいつでもどんなことでも何度でも,本当によく分かるまで質問してもいいですよ」。

卒業生への電話

 かつて,卒業間もない卒業生に対して,卒業研究のことで尋ねたいことがあって,電話したことがあります。そのときは,1度目は忙しそうで取り次いでもらうことができずに2度目に取り次いでもらって手短に用件を伝えて,その場で回答できない内容であったので後日持っているデータを調べてもらって返事をもらうことにして電話を切りました。

 ところが,なかなか電話もメールもきません。とうとう最後まで返事が来ませんでした。毎日が忙しいんだなあと思って他の方法でなんとかすることにして,そのときはあきらめました。

 私も経験がありますが,新採用の新任1年目はとにかく忙しい物です。何が忙しいと言われても毎日の朝から晩まで,その日の夜も忙しく,朝起きれば今日のこと,一日が始まればその日のことに加えて明日のこと,夜になれば明日のことに加えて明後日のことで頭がいっぱいです。

 私には,今を精一杯生きることで忙しいと感じました。「季節の草花に目をやる余裕を持ったらどうか」とよく言われたものです。特に今年は新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止と感染予防の徹底対策のために,例年以上に忙しい物と推測できます。この3月に卒業したOBのみなさんの健康と活躍を祈ります。

文化の違い

 一度文化が形成されると,その文化の中での生活が当たり前になってきて居心地の良さを感じるようになります。そうなると,いつの間にか自分で意図しないのに意識もしないのに,自分の居心地の良さを感じている文化ではない異質のものが入り込んでくると,あるいは自分が他の異なる文化圏に行ってみると,違和感を覚えてしまうことがあります。

 知らず知らずのうちに,こうでなければならないと○○ねばならないという思いがするようになってきます。他の異なる文化を避けてしまったり排除しようとしてしまったりするようなことまで起こってしまいます。

 昔から,異文化理解と呼ばれる教育活動が展開していますが,何も,自分を育ててくれた文化を持っている国以外の国や地域のことだけを言うものばかりではないはずです。体の使い方や反応の仕方など,毎日の生活の中での些細に思える発話や行動でも,自分を育ててくれた文化ではない他の文化に触れる機会が日常的にあるはずですから,いたるところでそれらの現象は目の当たりにしています。その都度,立ち止まって,居心地の良さを感じている自らの文化を見つめ直してみるのはいかがでしょうか。自戒を込めて。

前に進むべき次の一歩

 教育研究において,成果を上げることは簡単とは言いませんが,奮闘努力の結果としての成果を上げることはある程度可能です。しかし,何度も書いてきたことですが,その成果がどの要因によってもたらされたのかを特定することは極めて困難な作業を伴います。換言すれば,結果をもたらした原因となる要素を特定することはできないと言っても過言ではないほど難しいです。

 学会では,様々な成果が披露されますが,その成果がいったいどの手立てによって挙げられたのかを厳密に議論しているものはあまり見受けられません。それだけ,教育の場合には,条件が複雑に絡み合いすぎていて,条件制御ができないのです。

 仮に,ある学校のあるクラスを取り上げたとしても,そのクラスに在籍する児童生徒のみなさんがたとえば30人いたとして,その30人の生育履歴は30通りあり,年齢も4月生まれから翌年3月生まれまで12か月の違いが存在し,条件は揃いません。ある成果が上がったとして,その成果は12か月の生育履歴の違いに依存しないのかと問われてどのように反論するでしょうか。

 教育研究の場合には,そのような揺らぎを包含した上での議論がなされてきた歴史があります。それを踏まえた上で,学会で発表された成果の数々を耳にし,今後の教育研究のひらめきを引き出すきっかけにしたいものです。

 昨日は日本STEM教育学会全国大会のオンライン開催の日でした。数多くの成果から,自分自身が前に進むべき次の一歩を踏み出す多くの学びを得ることのできた貴重な一日です。

教職大学院のリフレクションをオンラインで開始

 教職大学院のリフレクションの授業をオンラインで始めました。

 院生のみなさん自身がこれまでの大学院の活動の中でどのような教育研究の実践を積み上げてきたのか,それについてどのように振り返って考え,判断し,今後どのように取り組んでいこうとしているのかを一緒荷鳴って考え判断し,次の行動への見通しを持つ時間として位置付いています。

 我々の発話と行動は,社会的文脈に依存していることがよく知られています。発話となって外化されるプロセスの中では,考え判断した上で行動の一つとして発話されることになりますから,発話も,①考え,②判断し,③行動する一連の流れの中に組み込まれていると言えます。

 学校現場における道徳教育は,①道徳的価値,②道徳的判断力,そして③道徳的実践とされており,①道徳的価値と②道徳的判断力は道徳の時間で補充,深化,統合されます。その上で,学校教育全体の教育活動を通じて,③道徳的実践が求められます。したがって,道徳教育は学校教育の教育活動全体で行われる領域として位置付いているものです。

 良くお分かりのことと思いますが,我々の①考え,②判断,③行動のうち,①考え,②判断が望ましいものとなったとしても,③行動が伴わないことは良くあることです。道徳教育においても同様です。①道徳的価値と②道徳的判断力が道徳の時間において培われたとしても,それがそのまま③道徳的実践に直結するかと言えば,なかなかそうならないところがあって難しい物です。

 ですから,道徳の時間において①道徳的価値と②道徳的判断力がどれだけ培われたとしても,学校教育全体での教育活動において③道徳的実践がいかに行われるかが注目されるところです。

 話を戻します。

 教職大学院のリフレクションの授業において,院生のみなさんの考え判断そして行動見通しを聞きながら,その文脈に依存して改善に向けた処方箋がひらめいてくるのですから不思議な物です。自ら語りながら,つまり自ら文脈を作りながら次の文脈を作り出す道筋を作っていく作業が行われていることを感じながらも,さらに次の文脈が見えてくる現象が起こっています。

 我々は,そのときの社会的文脈,つまり自分のまわりで語られている状況や行われている諸々の行動現象を見ながら,自ら考え,判断し,次の行動を見通しながらより良い行動を模索しつつ,動き始めていることを改めてとらえなおすことができます。

 だからこそ,一人で考え,判断することも価値あることですが,それとともに自ら考え,判断したことを行動を起こす前に,周りの異なる文脈を持っている人達と情報交換し,考え,判断を共有し改善していくことが重要で,大切なのです。