『学び合い』の考え方を使った授業をしなくなって久しくなったとします。あるいは『学び合い』の授業ではありませんといわれる授業があるかもしれません。そんなときは,果たして『学び合い』ではなくなったのでしょうか?『学び合い』ではない授業になっているのかもしれませんが,案外,そうでないこともあります。それは,『学び合い』が考え方だからです。考え方であるからこそ,いつの間にか自分の体の中にしみこんでしまって,その一部になっているからではないかと思うところです。
特段に,『学び合い』と言わなくても考え方が『学び合い』であれば,私たちと共有できることであると考えています。私の例で言わせてもらえれば,私の大学の講義は『学び合い』の授業,『学び合い』の講義であるとは一切言っていませんし,看板も出していないのです。しかしながら,その考え方はまさしく『学び合い』に則って実践しているので,考え方は『学び合い』であると自負しています。
形をなぞろうとしている『学び合い』もあれば,考え方が『学び合い』という『学び合い』もあるでしょう。どちらも,考え方を大切にして学修者のみなさんと共有していればこそ,『学び合い』と言えるものです。