信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

困っている人がいたらどうしますか?

 みなさんは,困っている人がいたらどうしますか?どうしますか,と尋ねる前に,どうしたいと思いますか?が先にあるでしょう。考えを尋ねます。次に,その判断は正しいですか?が続きます。判断の正しさを尋ねます。その上で,どうしますか?と,実際に起こすであろう具体的な行動を尋ねます。実際に行動を起こすかどうかは難しさを伴います。
 困っている人を助ける行動を起こすのは,当たり前のことであると私は思っています。少なくとも私たちの国ではそのような文化の下で教育を受けているように感じます。困っている人であるかどうかを判断することはなかなか難しいことですが,困っているのではないかなあと思った場合には少なくとも声をかけるのが当たり前なのではないかと私は思っています。「私に協力できることはありませんか」とか「お手伝いしましょうか」とか,と。
 各教科の授業の時に困っている人,困っているように見えている人がいたら,声をかけることは当たり前のことと思いますがいかがでしょうか。それが当たり前のことと思うのは私だけかもしれませんが,少なくとも声をかけることをためらわない,あるいは声をかけた方がいいのかなあと思うことを迷わない子どもたちを育てることが必要です。全国の先生方からは,「コミュニケーションできない子がいて,そういう子は自分からしゃべれないのでほかの子たちと関われないがどうしたらよいか」という質問をよく受けます。元々そういう子が生まれた直後からそのような状況であったのでしょうか。おそらく,小学校入学からの教育の経緯から自分がそのようにすることによって安定感や存在感を保持する術を学習して身に付けてきたのでしょう。それは本人の責任と言うよりも周囲の環境がそうさせたのではないでしょうか。
 困っている人がいたら助けてあげるのが当たり前だと思っている人間に取ってみると,授業中に明らかに誰にも相手にされず困っている状況が分からない子が一人もいないのに,なぜ誰も助けてあげないのか不思議に思う感覚を持ちます。
 そのような子がいるクラスの場合,本人から話ができなければ,周りの子どもたちがその子の様子を見て声をかけることのできる文化を創っていく必要があるのです。周りの子を個別に育てるのではなく,その集団つまりクラスを育てるのです。クラス全体が自らの意思で動くことのできる文化を育てることが,遠回りかもしれませんが,最善の道です。それが『学び合い』の考え方の言うところの,一人も見捨てない教育なのです。20年後の未来に生き残る子どもたちには,困っている人を決して一人も見捨てない,ぜひそういう人になってほしいと願うばかりです。