信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

教えているつもりはなくても

 大学で授業をしていると,教えているつもりではないのに受講生から丁寧にメールが届き,教えてもらったことへの礼が述べられていることがあります。

 その一方で,何回も繰り返して教えた(と私は確信している)にもかかわらず,「そんなこと聞いてません」と受講生から言われることもしばしばです。

 この現象は,教育現場に限らず,よく見られることです。11年前にすでに実証されている現象です(「川上早苗・三崎隆:「中学校理科の『学び合い』授業での「学び手」と「教え手」に関する研究」,臨床教科教育学会誌,9(2),29-35,臨床教科教育学会,2009.」)。

 日々の授業において,教師は必要な事柄を子どもたちに教えています。教えているつもりのはずですが,学び手にとっては学んでいるとは限らないことは自明です。もちろん,学んでくれている子どもたちもいますが,その一方で学んでいない子どもたちも半数は存在しています。

 一方,教えているつもりではないのに学んでくれている子どもたちも半数存在しています。なかなか難しい物です。この話をする度に,弟子が師匠の立ち振る舞いを見ながら学んでいく正統的周辺参加を思い出します。それらは,彼らの学びが自分ごとになっていると改善が図られることを意味しています。

 日常の学校教育における教科の授業でも,子どもたちの学びをいかに彼ら自身の自分ごとにできるかが決め手かもしれません。その意味においても教師の仕事は子どもたちをその気にさせることであると改めて思うところです。