信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

学会最終日

 日本科学教育学会第45回年会も今日が最終日です。本来ならば,鹿児島大学主管なので,空路鹿児島入りしているところですが,本年度はかなわず残念です。来年度こそは従来の形での開催がかないますよう心から願います。
 全国大会は,1年間の研究成果を披露する場なので,聞く側にとっても学びの多い機会となります。ぜひ聞きたいと思っている内容の発表が同時間帯に組まれているとどちらを優先しようか迷ってしまいます。質疑応答の中から目の覚めるような発見もあるので,最後まで見逃せません。ペーパーになる前の最新の情報を収集することができ,有り難いことです。

 

学会全国大会で発表しました

 昨日から,日本科学教育学会の第45回年会(全国大会)が同期型オンラインで開かれています。明日までの3日間の予定です。昨日は私の発表でしたが,昨年度が紙上発表のみであっただけに2年ぶりの全国大会での発表となりました。対面ではないので,実際に聞いてくださる方々の様子を見ながらの発表にはなりませんでしたが,質疑応答ではビデオ・オンにて応答できるので少しでも臨場感を持つことができます。大勢のみなさま方から聞いていただき,感謝しています。

 

ツクツクボウシ

 研究室の外の木々で鳴く蝉の声の中に,初めてツクツクボウシが加わりました。ツクツクボウシが鳴き始めると夏も終わりだと感じます。ここ数日で気温が下がってきたので,今年は鳴き始めが早いのかもしれません。2学期も始まりましたので,キャンパスに一足早く,秋がやって来ました。昆虫が私たちに季節を知らせてくれるシステムは,自然の恵です。

 

大切なことを教えてもらっています

 追試験をする機会があります。そのときも本試験と同じ文化を目の当たりにします。30分を経過して答案を仕上げると,随時,退室しますが,そのときの受講生のみなさんの持っている文化です。
 まず,試験に使った消しゴムのかすを1カ所に集めます。スッと席を立って入り口付近にある消毒液のところに行ってペーパーに霧吹きのようにして消毒液を含ませて自席に持ち帰ります。丁寧に机と椅子を拭いた後,1カ所に集めた消しゴムのかすを片手に拾い上げ,しっかり握りしめます。荷物を整理した後に,席を立つとこちらを向いて一礼。入り口にてこちらに向き直って一礼。こちらを向いたときに,私から先に会釈をさせてもらうこともあります。
 誰に教えてもらったわけでないでしょうに,特定のコースだけでない上に特定の学年でもなく,それも一人二人ではないだけに,不思議な文化です。そのたびに,受講生のみなさんから,大切にしなければならないことを教えてもらっています。心から感謝しています。

 

明日から学校がスタート

 当学部附属学校園の一部は明日から学校が始まります。学期制の場合は2学期が,前後期制の場合は前期後半がスタートします。子どもたちの夏休みが終わります。当県でも新型コロナウイルス感染症の感染状況がなかなか収束を見せない中ですが,子どもたちの元気な笑顔を見ることができることを願っています。ここ数日の降雨にて被災されたみなさまには心からお見舞い申し上げます。

 

違っていて当たり前の尊さを褒めている

 私の講義を受講してくださる学生のみなさんから,「どの意見も大げさなほど褒めてくださるのが印象的でした」と言われることがあります。自分では大げさにしているつもりはないのですが,学生のみなさんにはそのように受け止められるのでしょうか。
 講義の後半には,グループ・ワークをしてもらい,彼らの考え判断を聞かせてもらっています。わずか15分ほどしかとれず,ときには10分になってしまうこともありますから,そのわずかな時間の中で,学生のみなさんが自分の考え判断を語り合うことはなかなか難しいのかもしれません。
 教壇に立ったことのない学生のみなさんの考え判断を聞かせてもらうと,へえーっ,ほおーっ,なるほどねえ,という考え判断が随所に見つかります。そのたびに彼らから学ばせてもらっています。私自身の受け止めとは異なる視点から斬新的に切り込んだ分析によって得られる自らの考え判断を語ってくれますから,新鮮です。
 同じ情報であったとしても,その捉え方はみんな違っていて当たり前なのです。違っていて当たり前であるからこそ,学びが生起します。違っていて当たり前の尊さを褒めている分だけ大げさに聞こえているのかもしれません。

 

同じ結論に至る過程と根拠は一人一人違っている

 みんな違っていて当たり前です。考えても見れば,40人いて40人がすべて同じであることなどあり得ないことです。頭の中は見えないだけに,そこで思考判断される事柄が違っていて当たり前であることがなかなか理解しづらいことがあります。たとえ,結論が同じであったとしても,そこに至る過程や根拠は人それぞれです。
 日本の学校教育の場合,同じ結論を求める機会が星の数ほどありますから,同じ結論になるとあたかもそこに至る過程や根拠も全員が同じであるという錯覚に陥ることがしばしば起こってしまうから不思議です。結論が同じであったとしても,そこに至る過程や根拠を丁寧に時間をかけて全員に聞いていくと,40通りであることが分かります。現実的には,それをかなえる時間的な余裕がない,精神的なゆとりもないのでしょうが,ころからそのような錯覚を引き出しているのではないかとも思えるほどです。
 よく聞いてみると,同じ結論であったとしても,隣の子は自分の考えたことよりももっと効率的で分かりやすい道を辿っていたと言うことがよくあります。だからこそ,違っていて当たり前のところから学ぶことが星の数ほどあるのです。
 結論が同じであったとしても,そこに至る過程や根拠は,なにも教科書に書いてあることだけが正解なのではないことが多くあります。裏には多様な正解が隠されていることを推測できるだけの時間的な余裕と心のゆとりを持ちたいものです。「どうしてそのように考えたの?」と。