折り合いを付けられるかどうかの分かれ目はどこにあるのでしょうか?換言すれば,折り合いを付けられるかどうかをどのように判断しているのでしょうか?○○は絶対に折り合いを付けることはできないから,自分のこだわりを押し通さなければならないと思うのか,それとも○○は折り合いを付けられそうだから,折り合いを付けてみんなでゴールを目指そうと思うのか,その分かれ目はどのようにして決まるのでしょうか?経験の多さによるのかもしれません。先行研究に依れば,小学校第1学年の会話は折り合いを付けるような会話ではありません。お互いに全く無関心で,自分のことを優先して語り合おうとする会話が主流です。
小学校第3学年も違います。小学校第3学年は強制的に自分のこだわりの内容の話を押し通そうとする会話が主流です。小学校第5学年も違います。相手の話の内容が分かっていようがいまいが納得できようができまいが相手に従おうとするような会話が主流です。そう考えてくると,折り合いをつけることができるようになるのは,中学校の生徒になってからのことなのかもしれません。
考えるに,折り合いを付けることができるための必要要素としては,相手の話の内容を尊重できるようになるかどうかなのではないかと経験上,思います。それは根底には相手を信じることから始まる人間関係の構築があるやに思われます。相互承認観や相互肯定観の醸成に他なりません。集団育成の要として,お互いの語り合いを尊重して聞き合える文化を育てることが肝要なのではないかと考えるところです。折り合いを付けようと言えば良いのでしょうが,テクニックとしてどのようにしたら良いかは伝わりづらいところがあるでしょうから,お互いを信じ合おうと言った方が子どもたちには伝わりやすいのではないかと思うところです。