信濃の国からこんにちは

三崎隆です。私たちは『学び合い』(二重括弧の学び合い)の考え方を大切にしています。

一人見捨てない教育と誰一人取り残さない教育の大きな違いとは?

 今日は長いです。
 近年,SDGsが注目されてます。
 SDGsとは,外務省に依れば,「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)とは,2001年に策定されたミレニアム開発目標MDGs)別ウィンドウで開くの後継として,2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。」(ここまでhttps://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/about/index.htmlから引用)です。
 教育現場にも,このSDGsが取り入れられて様々な試みがなされています。いわゆる,”誰一人取り残さない教育”です。
 2020年11月20日にも書きました(https://ob1989.hatenablog.com/archive/2020/11/20)が,この誰一人取り残さない教育と,我々の主張する一人も見捨てない教育とはどこが違うのでしょうか?
・一人も見捨てない教育→『学び合い』の考え方
・誰一人取り残さない教育→SDGs
 それを考える上で,両者の主語は何かを考えてみてください。
 前者の主語は何でしょうか,後者の主語は何でしょうか?前者は明確に子どもたちです。それでは後者の主語は?誤解を恐れずに答えを探してみると,教師(指導者,主催者,主導者...)ではないでしょうか,と私なりに考えます。
・一人も見捨てない教育→主語はこどもたち
・誰一人取り残さない教育→主語は教師
 つまり,次のように換言できます。
・一人も見捨てない教育→学び手が,集団内の構成員を一人も見捨てない
・誰一人取り残さない教育→教え手が,集団内の構成員を誰一人取り残さない
 違いは明瞭です。SDGsの言う誰一人取り残さない教育は,教え手が教えている集団内の構成員,学校現場では子どもたちですが,を誰一人取り残さないように教育を施すことです。自分は,つまり教師自身は,学級内の子どもたちをいかにして誰一人取り残さないようにしたらよいのかその方策を考えて,実践します。リフレクションは教師自身がします。教師自身がそのリフレクションに基づいて教師自身が次の手立てを考え,また挑戦します。結果は教師自身のものです。
 一方,我々の主張している一人も見捨てない教育は,子どもたち自身が自分の所属する集団内の構成員,つまりお友達を一人も見捨てないように教育活動を自ら行っていく教育です。子どもたちが,自分はお友達を見捨てていないだろうかと考え,判断し,実際の行動に挑戦します。その結果は子どもたち自身のものです。ですから,子どもたち自身が自らリフレクションをします。そのリフレクションの結果に基づいて,次にどうしたらよいかをこれまた子どもたち自身が考えます。教師が考えても仕方のないことです。それが良いかどうかは教師自身に判断がつかないからです。子どもたち自身がトライ・アンド・エラーしながら挑戦し続けて結果を出していくしかないのです。
 でも,子どもたちにさせることは可能です。飴と罰のような手立てを用意さえすれば,子どもたちを動かすことはできます。しかしながら,子どもたちの心まで動かすことはどうでしょう?子どもたち自身が,本当,必要だと考え,する必要があると判断し,やろうと決断してやってみるようでなければ,”先生に言われたから仕方なくやっている”で終わります。その結果は,先生のいる目の前でははっきり現れるでしょうが,先生の言うとおりにしなければおこらえますから,でも先生がいないところではどうでしょう。先生が見てないんだから,やらなくてもいいやと考え判断し,しないのではないでしょうか?それでは,意味がありません。それはまさに,教え手が誰一人取り残さない教育ではあるでしょうが,学び手が一人も見捨てない教育ではないです。
 いかがでしょうか?違いをご理解いただけますか?
・一人も見捨てない教育→学び手がお友達を一人も見捨てないように実際に動いている
・誰一人取り残さない教育→教え手が子どもたちを誰一人見捨てないように動いているだけ
 したがって,『学び合い』の考え方では欠かせない必須事項があります。それは,授業の最後に子どもたちに語りかけることです。「今日の授業であなたがやってみたことは,本当にそれで良かったのか?」と。”自分は今日の授業で,お友達を一人も見捨てないで過ごすことができたのか”とリフレクションを通じて,自らの45分なり50分なりの言動をメタ認知してもらう必要があるからです。
 子どもたちに対して,「自分は今日の授業でお友達を一人も見捨てないためには,①何ができたのだろうか,②それ(自分ができたこと)は果たして良かったことなのか何か不足していることがあったのか,③次の授業では自分は何をしたら良いのだろうか,」と自らリフレクションを促すのです。これが,『学び合い』の考え方で言うところの,授業最後に必須の3つのリフレクションです。それが,学び手が一人も見捨てない教育,つまり『学び合い』の考え方です。
 一方,誰一人取り残さない教育は,それは全く必要ありません。だって,教え手が自分でリフレクションをすれば良いだけだからです。授業が終わってから,一人で録画映像を見ながら,じっくりリフレクションをして,子どもたちに還元する必要など全くなく,自分のためだけに自分だけの方法で自分一人で次の授業でどうしたらよいかだけをただ考えるだけで良いのです。
 ですから,授業最後に子どもたち全員に対して,何も語りかける必要など全くありません。なぜ,語りかける必要があるのでしょうか?その必然性はどこにも見いだすことはできません。だから,授業の最後は何もせず,そのまま終わります。
 『学び合い』の考え方,つまり学び手が一人も見捨てない教育の場合は,授業の最後に教え手である教師が学び手である子どもたちに対して,語りかけて子どもたち自身のリフレクションを促しますが,教え手が誰一人取り残さない教育の場合は,授業の最後は何もしないで終わります。つまり,授業の最後に子どもたちにリフレクションを促す授業が,学び手が一人も見捨てない教育,つまり『学び合い』の考え方の授業で,授業の最後に何もしない授業が教え手が誰一人取り残さない教育の授業であると言えます。
・一人も見捨てない教育→授業の最後に学び手に対して,「それで本当にいいのか?」と問う。
・誰一人取り残さない教育→授業の最後に子どもたちに尋ねる必要など全くない。
 今日の結論です。
 我々の『学び合い』の考え方による一人見捨てない教育と,SDGsによる誰一人取り残さない教育の大きな違いとは,主語が学び手なのか教え手なのかの違いです。
 さてあなたは,”学び手が一人も見捨てない教育”をしているのですか?それとも,”教え手が誰一人取り残さない教育”をしているのですか?どちらでしょうか,一度立ち止まって,改めてご自身でリフレクションしていただけると,ご自身の言動をメタ認知できるかもしれません。
・一人も見捨てない教育→学び手が一人も見捨てない教育
・誰一人取り残さない教育→教え手が誰一人取り残さない教育
 最後までお読みくださり,ありがとうございました。